2026岡山旅行記2日目その5~初代から八代までは統一の血族ではない?~
12時10分、大原本邸の見学に来ていた。

土間の見学を終えて、外に出てきた順路に沿って左に曲がった。
左手の建物は非公開エリアのようである。

手前の中倉1を入ってみることにした。

大原の歴史と書かれていた。
大原初代は300年前にこの地にきて、200年余り前からこの家での暮らしが始まった。一人ひとりが大切につないできた300年を感じてほしいとのこと。
それがコンセプトのようだ。

中はこんな感じだ。
右手から反時計回りに一周するようだ。

大原家代々と倉敷の歩み、と書かれていた。
失礼ながら、6代孝四郎、7代孫三郎、8代總一郎、のお三方は全然顔が似ていないと思う。まあ、男性は母親に似ると一般的に云われていることからすれば自然かな。

初代は忠則で、延宝期に誕生し、元禄期に児島片岡村から倉敷村へ移住した。
正徳期に二代忠之が誕生する。

1726年(享保11年)、倉敷村宗門帳に初代忠則一家らしき記述があったそうだ。
これが初めて大原家が世に出たことになるのだろう。
もっとも、二代忠之に関しては全く記録がなく、謎に包まれた人だそうだ。
1747年(延享4年)、三代金基(かねもと)が誕生する。
金基が家業を確立し大原本邸を建てた実業家である。
1778年(安永6年)、四代好道(こうどう)が誕生する。

好道は商才と文化的素養を備えた才人だそうだ。
1803年(享和2年)、五代壮平、吉井屋釤秀三男として誕生する。

知恵と胆力と進取の精神を持つ巨人だそうだ。
1818年(文政元年)、壮平が家督相続をする。
1833年(天保4年)、六代孝四郎、岡山丸亀町備中屋藤田温之三男として誕生する。
ん、五代は四代ないし初代と、また五代は六代とも血が繋がっていないということか。
1861年(文久元年)、五代壮平が倉敷村庄屋に就任した。

1880年(明治13年)、七代孫三郎(まごさぶろう)が誕生する。
幕末から明治にかけて五代壮平が貧民救援活動を長きにわたって積極的に行う。六代孝四郎が倉敷紡績所頭取に就任する。
六代孝四郎は学識と人間性で新分野を切り開いた創造者とのことだ。

1904年(明治37年)、七代孫三郎が家督を相続する。

七代孫三郎は経営に社会事業に趣味に活躍した風雲児だそうだ。
1909年(明治42年)、八代總一郎が誕生する。

1923年(大正12年)、七代孫三郎、倉紡中央病院(現倉敷中央病院)を開院し、理事長に就任する。

1930年(昭和5年)、孫三郎、大原美術館を開館させる。
1940年(昭和15年)、八代總一郎が家督相続する。
同じく、九代健一郎が誕生する。
1941年(昭和16年)、八代總一郎が倉敷紡績社長に就任する。

八代總一郎は正義と美学を貫いた美しき経営者だそうだ。

1968年(昭和43年)、八代總一郎が永眠した。
つまり、初代から八代までは統一の血族として続いてはいなかったということか。
年表を見終えて、中倉1を出た。
隣の中倉2に入ることにした。

中倉2は10年先が見えた人と題して、七代孫三郎を紹介する部屋である。

ここでは文書や遊具が展示されているようだ。

掛け軸が飾られていた。

こちらの勲章のうち、どちらかは1930年(昭和5年)に下賜された勲三等瑞宝章だろうか。

こちらも展示品である。
何かよく分からないなと思いながら見てみたのである。
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土間の見学を終えて、外に出てきた順路に沿って左に曲がった。
左手の建物は非公開エリアのようである。
手前の中倉1を入ってみることにした。
大原の歴史と書かれていた。
大原初代は300年前にこの地にきて、200年余り前からこの家での暮らしが始まった。一人ひとりが大切につないできた300年を感じてほしいとのこと。
それがコンセプトのようだ。
中はこんな感じだ。
右手から反時計回りに一周するようだ。
大原家代々と倉敷の歩み、と書かれていた。
失礼ながら、6代孝四郎、7代孫三郎、8代總一郎、のお三方は全然顔が似ていないと思う。まあ、男性は母親に似ると一般的に云われていることからすれば自然かな。
初代は忠則で、延宝期に誕生し、元禄期に児島片岡村から倉敷村へ移住した。
正徳期に二代忠之が誕生する。
1726年(享保11年)、倉敷村宗門帳に初代忠則一家らしき記述があったそうだ。
これが初めて大原家が世に出たことになるのだろう。
もっとも、二代忠之に関しては全く記録がなく、謎に包まれた人だそうだ。
1747年(延享4年)、三代金基(かねもと)が誕生する。
金基が家業を確立し大原本邸を建てた実業家である。
1778年(安永6年)、四代好道(こうどう)が誕生する。
好道は商才と文化的素養を備えた才人だそうだ。
1803年(享和2年)、五代壮平、吉井屋釤秀三男として誕生する。
知恵と胆力と進取の精神を持つ巨人だそうだ。
1818年(文政元年)、壮平が家督相続をする。
1833年(天保4年)、六代孝四郎、岡山丸亀町備中屋藤田温之三男として誕生する。
ん、五代は四代ないし初代と、また五代は六代とも血が繋がっていないということか。
1861年(文久元年)、五代壮平が倉敷村庄屋に就任した。
1880年(明治13年)、七代孫三郎(まごさぶろう)が誕生する。
幕末から明治にかけて五代壮平が貧民救援活動を長きにわたって積極的に行う。六代孝四郎が倉敷紡績所頭取に就任する。
六代孝四郎は学識と人間性で新分野を切り開いた創造者とのことだ。
1904年(明治37年)、七代孫三郎が家督を相続する。
七代孫三郎は経営に社会事業に趣味に活躍した風雲児だそうだ。
1909年(明治42年)、八代總一郎が誕生する。
1923年(大正12年)、七代孫三郎、倉紡中央病院(現倉敷中央病院)を開院し、理事長に就任する。
1930年(昭和5年)、孫三郎、大原美術館を開館させる。
1940年(昭和15年)、八代總一郎が家督相続する。
同じく、九代健一郎が誕生する。
1941年(昭和16年)、八代總一郎が倉敷紡績社長に就任する。
八代總一郎は正義と美学を貫いた美しき経営者だそうだ。
1968年(昭和43年)、八代總一郎が永眠した。
つまり、初代から八代までは統一の血族として続いてはいなかったということか。
年表を見終えて、中倉1を出た。
隣の中倉2に入ることにした。
中倉2は10年先が見えた人と題して、七代孫三郎を紹介する部屋である。
ここでは文書や遊具が展示されているようだ。
掛け軸が飾られていた。
こちらの勲章のうち、どちらかは1930年(昭和5年)に下賜された勲三等瑞宝章だろうか。
こちらも展示品である。
何かよく分からないなと思いながら見てみたのである。
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この記事へのコメント
ファミリーヒストリーの世界ですね。。
名家なだけに、家督を継続するには養子も厭わないのでしょうか。
歴史的にも、そのほうが成功している例も多いですし。
大原家もそれで成功したのかも。。
ちなみに、、、、ワタクシは、分家の初代です。
それにしても、6代目以降は直系ですが。その6代目以降が今の大原家を作ったといっても過言ではないので、少し複雑な感じもします。
まあ、お金はある所にお金が流れるというか、お金があるから大きく発展できるというか。
まあ、食いつぶす子孫もいるだけに優秀というか、養子を取って大正解。