2026岡山旅行記1日目その28~あるとないとで、どの程度、風よけ寒さよけになるのだろうか~
15時7分、岡山城2階は田光政と綱政~江戸時代の岡山~をテーマにしている。
その中で、池田光政のエリアを見ていた。
池田光政はまちづくりを担う人材育成のために学校設立に力を注いだ。
子の綱政は家臣を使って大規模な新田開発、後楽園の築庭などを行った。
岡山市の礎は光政、綱政の時代に築かれたといっても過言ではないとのこと。
1672年に光政が隠居し、綱政が藩主となった。
1700年に後楽園の外形が完成し、1701年に赤穂浪士事件が起きた。
全国にさきがけた人づくり、である。
1669年に光政は藩士やその指定尾ために岡山藩藩学を設立し、翌年には庶民のための閑谷学校を設立した。
城下町を守れ!旭川と治水、である。
岡山城は背後を流れる旭川から堀の水を引くと共に自然の堀としての役割もあった。
しかし、洪水が起きると城下町に深刻な被害をもたらした。
そこで、津田忠邦により城下町の上流で分流させる工事が行われた。
それが百聞川と呼ばれる放水路となった。
津田永忠は岡山藩藩学、閑谷学校、後楽園造営、新田開発など光政・綱政の2代に仕え多くの事業を実現した。
磯田‘sEyeである。
磯田とは岡山市出身の歴史学者である磯田道史氏のより深い考察である。
百聞というのは180mで、それだけの川幅のある放水路を作って香水の水を海に流してしまおうと津田忠邦は考えたとのことだ。
ひろがる大地干拓、である。
新田開発の一環として、百聞川の再整備が大勢の人々の工夫と技術によって進められた。
この百聞川には城下町を旭川の洪水から守る、流域の排水、新田の維持という3つの機能があった。
その名は御後園~岡山後楽園の誕生と百聞川、そして新田開発~、である。
沖新田の開発に欠かせなかった百聞川の整備が本格化した頃、綱政は新田開発を休止し、後楽園の築庭を命じた。これは壮大な沖新田の干拓事業に対する反対意見のを鎮めるものだったと云われている。
磯田‘sEyeである。
後楽園は当初岡山城の背後にあったことから御後園と呼ばれていた。
1871年に後楽園と名付けられた。
昭和の頃まではごこうえんと呼ぶ人もいてたそうだ。
屏風が展示されていた。
枕元に立てられたもので、松鶴図小屏風である。
枕屏風といい、風よけや寒さよけのために用いられていた。
その名の通り、松と鶴が描かれている。
あるとないとで、どの程度、風よけ寒さよけになるのだろうか。
幕末・維新と岡山藩、である。
1863年、岡山藩は尊王攘夷派の水戸藩徳川斉昭の9男である池田茂政(徳川慶喜の実弟)を藩主に迎えた。
1868年に起こった神戸事件は岡山藩兵の隊列を横切ろうとしたフランス人水平を体調が負傷させたことに基づく。
幕末になり、色々と血なまぐさい事件が起きてきたなあと思ったのである。
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