2026岡山旅行記1日目その27~ここで千姫を知って、後に磯田氏の番組で詳しく知る~
15時4分、岡山城3階は、それぞれの関ヶ原、をテーマにしている。
ここまで宇喜多直家・秀家、小早川秀秋を見てきた。
最後に、池田輝政をはじめ池田家を扱っていた。

池田家岡山へ、である。

1603年、まだ5歳の池田忠継が小早川秀秋亡き後の岡山城主となった。
しかし、実際は生母の違う兄の利陸が岡山城に入り藩政を行った。

戦国の雄池田家、である。
池田輝政の父である恒興は、母が織田信長の乳母になったことがきっかけで織田信長の側近となった。
織田信長の死後は豊臣秀吉に仕え、長久手の戦いで長男と共に戦死して、輝政が後を継いだ。

左から、池田忠雄、池田忠継、池田利陸である。

池田恒興からの池田家の家系図である。

白鷺城主から烏城の主に~池田光政、岡山へ~、である。

池田輝政は姫路城主になったが、その後に嫡男の利陸、摘孫の光政が姫路城主になった。
しかし、光政が幼少のため鳥取へ国替えとなり、その後、岡山城主になった。

また、光政は鳥取情緒の時に徳川秀忠の養女である勝姫と結婚をして徳川家と縁者になった。

岡山城主となった光政が引き継いだのは備前一国28万200石と備中6群3万5000石の31万5200石である。
1632年に家臣共々岡山に入り、藩政を始める前に家臣の配置に着手した。

こちらは光政が家臣の屋敷割りに使ったものである。
3階を見終えて、2階へと降りた。

2階は。池田光政と綱政~江戸時代の岡山~、をテーマにしている。
自ら先頭に立って政治改革を行った池田光政、後楽園をつくり、干拓で大地を拡げた綱政、彼ら親子の時代を扱っている。

池田光政の政治改革である。
特徴はおおよそ3つにもとめることができるとのこと。
自らが政治を行う「動く藩主」、家臣より領民優先、「ひと」を重視、である。

こちらは池田光政の奉納唐太刀である。

千姫・勝姫岡山を救う~池田光政、洪水からの復興~、である。

1654年、岡山城下を大降水が襲った。このとき愛娘の勝姫の夫のためにと池田光政に資金援助したのが千姫(天樹院)とのことだ。
千姫は江戸幕府2代将軍徳川秀忠の娘で、豊臣秀頼の正室、その後に本多忠勝の孫である忠刻の正室となり、姫路城に住んでいた。
この旅行の後にBSの「磯田道史の歴史をゆく」という番組で「姫路城の真実」を見て千姫のことも詳しく述べていた。

こちらも池田光政の奉納唐太刀である。

名君に名臣あり~熊沢蕃山と津田永忠~、である。

池田光政は自ら政治改革を行い、学問に励むことから名君といわれていた。
同じころに活躍した会津の保科正之と水戸の徳川光圀と合わせて3名君といわれることもあるそうだ。
熊沢蕃山は陽明学者で初期の政治改革の補佐役をしていた
しかし、幕府が推奨する朱子学に反すると批判を受け、藩を離れた。
その後、津田永忠が補佐役となった。

こちらはその当時の資料である。

津田永忠が拝領した黒漆金銀蒔絵台付箱入池田光政筆扇面である。

こちらは誰がかいたのか分からないが新古今和歌集の模写?である。

こちらは家紋入煙管である。
この頃からタバコがあったんだなと思ったのである。
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ここまで宇喜多直家・秀家、小早川秀秋を見てきた。
最後に、池田輝政をはじめ池田家を扱っていた。
池田家岡山へ、である。
1603年、まだ5歳の池田忠継が小早川秀秋亡き後の岡山城主となった。
しかし、実際は生母の違う兄の利陸が岡山城に入り藩政を行った。
戦国の雄池田家、である。
池田輝政の父である恒興は、母が織田信長の乳母になったことがきっかけで織田信長の側近となった。
織田信長の死後は豊臣秀吉に仕え、長久手の戦いで長男と共に戦死して、輝政が後を継いだ。
左から、池田忠雄、池田忠継、池田利陸である。
池田恒興からの池田家の家系図である。
白鷺城主から烏城の主に~池田光政、岡山へ~、である。
池田輝政は姫路城主になったが、その後に嫡男の利陸、摘孫の光政が姫路城主になった。
しかし、光政が幼少のため鳥取へ国替えとなり、その後、岡山城主になった。
また、光政は鳥取情緒の時に徳川秀忠の養女である勝姫と結婚をして徳川家と縁者になった。
岡山城主となった光政が引き継いだのは備前一国28万200石と備中6群3万5000石の31万5200石である。
1632年に家臣共々岡山に入り、藩政を始める前に家臣の配置に着手した。
こちらは光政が家臣の屋敷割りに使ったものである。
3階を見終えて、2階へと降りた。
2階は。池田光政と綱政~江戸時代の岡山~、をテーマにしている。
自ら先頭に立って政治改革を行った池田光政、後楽園をつくり、干拓で大地を拡げた綱政、彼ら親子の時代を扱っている。
池田光政の政治改革である。
特徴はおおよそ3つにもとめることができるとのこと。
自らが政治を行う「動く藩主」、家臣より領民優先、「ひと」を重視、である。
こちらは池田光政の奉納唐太刀である。
千姫・勝姫岡山を救う~池田光政、洪水からの復興~、である。
1654年、岡山城下を大降水が襲った。このとき愛娘の勝姫の夫のためにと池田光政に資金援助したのが千姫(天樹院)とのことだ。
千姫は江戸幕府2代将軍徳川秀忠の娘で、豊臣秀頼の正室、その後に本多忠勝の孫である忠刻の正室となり、姫路城に住んでいた。
この旅行の後にBSの「磯田道史の歴史をゆく」という番組で「姫路城の真実」を見て千姫のことも詳しく述べていた。
こちらも池田光政の奉納唐太刀である。
名君に名臣あり~熊沢蕃山と津田永忠~、である。
池田光政は自ら政治改革を行い、学問に励むことから名君といわれていた。
同じころに活躍した会津の保科正之と水戸の徳川光圀と合わせて3名君といわれることもあるそうだ。
熊沢蕃山は陽明学者で初期の政治改革の補佐役をしていた
しかし、幕府が推奨する朱子学に反すると批判を受け、藩を離れた。
その後、津田永忠が補佐役となった。
こちらはその当時の資料である。
津田永忠が拝領した黒漆金銀蒔絵台付箱入池田光政筆扇面である。
こちらは誰がかいたのか分からないが新古今和歌集の模写?である。
こちらは家紋入煙管である。
この頃からタバコがあったんだなと思ったのである。
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この記事へのコメント
最近に発見された書状によれば、
秀吉さんは山崎の戦いに間に合わず、
明智光秀さんを殲滅させた主力は池田恒興さんだったとか。
それが歴史学者たちによって認定されれば、
この展示も、一部が書き換えられるかもしれないですね。
秀吉の天下統一のための誇張が入っている気もします。
私なら自分の手柄にしたいです。
そして、秀吉の側近になりたいです。
そうなると、関ヶ原か大坂夏の陣で討たれているか🤣