2026岡山旅行記1日目その26~和糸と書かれていると思ったら・・・~

15時、岡山城3階は、それぞれの関ヶ原、をテーマにしていて、宇喜多直家・秀家に続いて、小早川秀秋の部を見ていた。
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小早川秀秋の家系図である。
木下家定の5男として生まれ、叔母が豊臣秀吉の正室である北政所であったことから、豊臣秀吉の養子になった。
その後、秀吉に秀頼が生まれたことから、小早川隆景に養子へとなった。
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小早川秀秋は既に見た通り、関ヶ原の戦いでの東軍勝利の立役者であるが、21歳で亡くなった。
そのため、大谷吉継の呪い説、殺生禁止の川で魚を獲って落馬など奇怪な伝説に溢れている。
その一方、わずか2年足らずの間に岡山城や城下町の整備などの実績もある。
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小早川秀秋、岡山城主になる、である。
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その小早川秀秋は関ケ原の戦いの勝利で、備前(岡山県南東部)と美作(岡山県北東部)の2国を与えられた。
また城主時代には城や城下町の拡張を進めたそうだ。
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動く?櫓たち、である。
小早川秀秋は大納戸櫓を亀山城(沼丞から、石山門を富山城から移築させたと云われている。
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小早川秀秋の略年譜である。
1582年に生まれ、1585年までに豊臣秀吉の養子になり、1593年に秀吉の実子である秀頼が生まれたことにより、1594年小早川隆景の養子となった。
1597年には総対象として慶長の役に出陣した。
1回目の元禄の役のときには当時の岡山城主宇喜多秀家が総大将なのだから、岡山城主の重要性が分かる。
しかしながら、1602年に死去し、跡継ぎなくて断絶する。
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濃州関ヶ原御合戦図である。
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池田輝政は先陣争いをした。
長良川では西軍の宇喜多秀家とかつての重臣であった東軍の川肥後守が陣を取った。
何宮山では池田輝政が毛利軍を押さえている。
こうして見ると池田輝政も活躍している。
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男女で力を合わせ、手柄を高める、という磯田‘sEyeである。
磯田とはテレビでもお馴染みの岡山出身の歴史学者磯田道史氏である。
当時の女性たちは打ち取った生首に化粧をすることで主人の手柄を大きく見せたとのことだ。
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小早川秀秋が終わり、最後に、それぞれの関ヶ原池田輝政、である。
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池田家は織田信長、豊臣秀吉に仕え、池田輝政の代になり徳川家康の娘である督姫を妻に迎え、家康の縁者となった。
関ヶ原の戦いでは、前哨戦となった岐阜城での戦いで大きな功績を上げ、その後に姫路城主となった。
1603年に池田輝政と督姫の子である忠継が岡山城主となった。
その輝政も1613年に姫路で死去した。
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こちらは池田輝政が活躍した岐阜城攻め(関ヶ原前哨戦)についての解説である。
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最初は合戦の合図であるホラ貝がうまくならず軍の統制が乱れた。
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しかしながら、池田輝政はかつて岐阜城城主だったため、弱点を上手くついて城を奪った。
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こちらは池田輝政の書状に対する徳川家康の返書である。
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こちらは池田輝政の甲冑である。
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こちらは書である。
和糸っと思ったら・・・。
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池田政久書の「和楽」と書いてあり、読めないなあと思ったのである。

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