2026岡山旅行記1日目その25~小早川秀秋は当初から徳川方だった~

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14時58分、岡山城3階にて、それぞれの関ヶ原というテーマの内、宇喜多直家・秀家の説明、ないし、生涯を見ていた。
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そのつぎが、それぞれの関ヶ原小早川秀秋、両軍の命運を握る、である。
近時は関ケ原の戦いにおいて小早川秀秋が西軍から東軍に寝返ったことが東軍勝利の最大の要因と聞いてことがある。
どうなんだろうか。
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小早川秀秋は1582年に生まれた。
1600年に関ヶ原の戦いで東軍の勝利に貢献して、岡山城主になった。
1602年に岡山で急死した。
18.9歳で関ヶ原の戦いに参加したのも驚きだが、20歳か21歳で急死するなんて!
昔だからしかたがないのか、毒でも盛られたのか。
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こちらは秀秋の甲冑?か。
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こちらは禁制札である。
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新たな岡山城主小早川秀秋のもとで出されたものである。
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後ろには宇喜多秀家を支えた花房家の説明書きがあった。
花房家は豪姫の実家である前田家と共に米を送るなど宇喜多秀家とその子孫の八丈島での暮らしを支えた。
その後、浮竹騒動で徳川に使え、旗本となった。
そういう懺悔というか気持ちがあったのだろう。
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こちらはお米を船便で送ったことに対する秀家親子の礼状である。
もっとも、複製品である。
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「ここもといよいよ堪えがたし、しかりながら御推量あるべくそうろう」と島の生活の苦難ぶりを訴えているそうだ。
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こちらは花房家の雁金紋が散りばめられる短筒である。
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こちらは1945年6月29日の岡山空襲により焼け落ちた天守跡から収集された岡山城鯱瓦留め釘である。
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また小早川秀秋の方を見た。
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小早川秀秋の関ヶ原である。
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1600年7月、石田三成が徳川家康に対抗して挙兵した。
小早川秀秋は西軍として東軍の伏見城を攻撃した。
その後、東軍から誘いを受け徳川家康と裏で繋がっていた。
そして、決戦前日の9月14日に秀秋は関ケ原を見渡せる松尾山城(岐阜県)に入った。
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当日は小早川秀秋の活躍もあり、2時間ほどの正午前に東軍の勝利で終わった。
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小早川秀秋は東軍と西軍どちらに見方をするか迷っていて、徳川家康から出陣を促す威嚇射撃により東軍についてと云われていたが、それは創作の可能性が高く、開戦時から徳川方だったのではという考えが有力になっているようだ。
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そもそも、小早川秀秋は木下家定の5男として生まれ、叔母(父である木下家定の妹)は豊臣秀吉の正室である北政所(ねね)である。
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秀秋は幼くして秀吉の養子になり、7歳で元服し、秀吉の後継者の一人とされていた。
しかし、秀吉の実施である秀頼が生まれると小早川隆景の所に養子に出されたのである。
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豊臣遺産という磯田‘sEyeがあった。
豊臣家は完全に消滅したのかという話しである。
北政所の実家である木下家が残っていて秀吉や北政所のゆかりの品々が多く残っているとのことだ。
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小早川秀秋家系図である。
こうして見ると豊臣秀吉の地を引いているのはいなさそうなので、完全に消滅した気がする。
実際は知らんけど。
ただ、小早川秀秋も養子養子と翻弄された人生なんだなと思ったのである。

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この記事へのコメント

2026年08月17日 10:24
こんにちは。

これまで定説とされていたものが、
新たな資料の発見によりアレコレ修正を迫られているみたいですね。
江戸時代に描かれた物語を、史実として採用しちゃった例も少なく無そうですから。
ずっと未来の人類が、大河ドラマの台本を発掘して歴史を考察しちゃうみたいな。。
豊臣秀吉の姉の子が、今の天皇家に繋がってるそうですね。
中村裕司
2026年08月18日 08:17
特に江戸時代は創作や勝手に悪者にされたりとあったようなので、本当の姿は後になって覆されることもあるんでしょうね。
まあ、それも本当の姿か分からないですが。
よくいえば、歴史のロマン、なんですかね。

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