2026岡山旅行記1日目その24~母恋しさに母の絵を撫でていると・・・~
14時51分、岡山城3階に降りてきた。

3階のテーマは、それぞれの関ヶ原、である。
関ヶ原の戦いではその後の城主も含めて3名の大名が重要な役割を果たした。
西軍の中心である宇喜多秀家、戦いの鍵を握った小早川秀秋、東軍の後の飛躍につながった池田輝政である。

3階の平面図である。

最初に関ヶ原の合戦シアターを見た。
見終えて出てきた。

2階に下りる階段である。

こちらは関ケ原の合戦図である。

それぞれの関ヶ原、宇喜多秀家、豊臣秀吉の遺志をつぎ、西軍の中心として、である。
秀吉の死後、石田三成は加藤清正、福島正紀ら最前線で戦ってきた武将たちと仲が悪くなり、そこを徳川家康が上手く利用し始めた。
反三成派を取り込み、やがて関ヶ原の戦いへと発展していった。

1598年に秀吉が死去した。
1600年に関ヶ原の戦いで宇喜多秀家が敗れた。
1606年に宇喜多秀家が八丈島に流された。
1616年に大坂夏の陣で豊臣家が滅んだ。
そして、1655年に宇喜多秀家が八丈島で死去したのである。

こちらは具足胴?甲冑?である。

こちらは秀家の正室で、前田利家の四女かつ豊臣秀吉の洋上である豪姫の小袖下布切である。
もっとも、複製品だが。

宇喜多秀家の関ヶ原である。
秀家は約1万7千という大軍を率いて天満山の南に布陣した。
これは西軍最大の勢力で、周囲には石田三成をはじめ、島津義弘、小西行長、大谷吉継らが陣を張った。
そして、宇喜多勢とにらみあったのは福島正則勢である。

宇喜多秀家の近くには東軍の小早川秀秋軍がいてる。
そう、西軍の小早川秀秋が徳川家康と通じていて小早川軍が西軍に襲いかかり、情勢は一気に東軍の勝利へと傾いた。
大谷吉継が自刃するなど西軍は大崩れとなり、戦は約2時間の正午頃に集結した。
宇喜多秀家も配送し、伊吹山に登って逃げ、山中に潜んだ。
その後、白樫(岐阜県)に逃げ、島津氏を頼りに大隅(鹿児島県)に落ち延びた。

ただ、宇喜多秀家は、関ヶ原の戦い以前に問題を抱えていた。

秀吉が亡くなったことで後ろ盾を失い、家臣の間で仲たがいが起こり、徳川家康が仲介に乗り出す事態が生じた。
父である直家以来の有力な家臣が徳川方に取り込まれたのである。

磯田‘s Eyeというのがあった。
岡山市出身の歴史学者の磯田道史氏の解説である。
それによると、徳川家康の側近中の側近である本田正信の息子本多政重が宇喜多勢として関ヶ原の戦いに参加していたのだ。
関ヶ原の戦いで負けても返り咲いて直江兼続の婿養子となり、最後は加賀百万石前田家の筆頭家老になって5万石に貰ったそうだ。

関ヶ原の敗者、寿命の勝者となる、である。

地図を見ても八丈島は遠い。護送する方も大変だ。

宇喜多秀忠は大隅で隠れ住むも、その後徳川幕府に引き渡され、島津家の人力委より命は助かり、八丈島に流刑となった。
秀家は八丈島で50年も過ごし、1655年、84歳で死去した。
関ヶ原の戦いに参戦した大名の誰よりも長生きをしたとのことだ。

磯田‘s Eyeによると、豪姫は八丈島への同行はできず、実家の加賀前田家からの生活物資を八丈島に送り生活を支えていたそうだ。
そういうこともあって、八丈島の海岸では秀家と豪姫の像が寄り添っているとのこと、

それがこの写真である。
八丈島の秀家と2人の息子のもとには豪姫の絵があったそうだ。

それがこの絵である。2人の息子が母恋しさに絵を撫でていたため額の部分が薄くなったとの逸話もある。


こちらは宇喜多秀忠の略年普である。

1606年八丈島に流され、1655年に八丈島で亡くなる間が白紙なのも辛いなあと思ったのである。
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3階のテーマは、それぞれの関ヶ原、である。
関ヶ原の戦いではその後の城主も含めて3名の大名が重要な役割を果たした。
西軍の中心である宇喜多秀家、戦いの鍵を握った小早川秀秋、東軍の後の飛躍につながった池田輝政である。
3階の平面図である。
最初に関ヶ原の合戦シアターを見た。
見終えて出てきた。
2階に下りる階段である。
こちらは関ケ原の合戦図である。
それぞれの関ヶ原、宇喜多秀家、豊臣秀吉の遺志をつぎ、西軍の中心として、である。
秀吉の死後、石田三成は加藤清正、福島正紀ら最前線で戦ってきた武将たちと仲が悪くなり、そこを徳川家康が上手く利用し始めた。
反三成派を取り込み、やがて関ヶ原の戦いへと発展していった。
1598年に秀吉が死去した。
1600年に関ヶ原の戦いで宇喜多秀家が敗れた。
1606年に宇喜多秀家が八丈島に流された。
1616年に大坂夏の陣で豊臣家が滅んだ。
そして、1655年に宇喜多秀家が八丈島で死去したのである。
こちらは具足胴?甲冑?である。
こちらは秀家の正室で、前田利家の四女かつ豊臣秀吉の洋上である豪姫の小袖下布切である。
もっとも、複製品だが。
宇喜多秀家の関ヶ原である。
秀家は約1万7千という大軍を率いて天満山の南に布陣した。
これは西軍最大の勢力で、周囲には石田三成をはじめ、島津義弘、小西行長、大谷吉継らが陣を張った。
そして、宇喜多勢とにらみあったのは福島正則勢である。
宇喜多秀家の近くには東軍の小早川秀秋軍がいてる。
そう、西軍の小早川秀秋が徳川家康と通じていて小早川軍が西軍に襲いかかり、情勢は一気に東軍の勝利へと傾いた。
大谷吉継が自刃するなど西軍は大崩れとなり、戦は約2時間の正午頃に集結した。
宇喜多秀家も配送し、伊吹山に登って逃げ、山中に潜んだ。
その後、白樫(岐阜県)に逃げ、島津氏を頼りに大隅(鹿児島県)に落ち延びた。
ただ、宇喜多秀家は、関ヶ原の戦い以前に問題を抱えていた。
秀吉が亡くなったことで後ろ盾を失い、家臣の間で仲たがいが起こり、徳川家康が仲介に乗り出す事態が生じた。
父である直家以来の有力な家臣が徳川方に取り込まれたのである。
磯田‘s Eyeというのがあった。
岡山市出身の歴史学者の磯田道史氏の解説である。
それによると、徳川家康の側近中の側近である本田正信の息子本多政重が宇喜多勢として関ヶ原の戦いに参加していたのだ。
関ヶ原の戦いで負けても返り咲いて直江兼続の婿養子となり、最後は加賀百万石前田家の筆頭家老になって5万石に貰ったそうだ。
関ヶ原の敗者、寿命の勝者となる、である。
地図を見ても八丈島は遠い。護送する方も大変だ。
宇喜多秀忠は大隅で隠れ住むも、その後徳川幕府に引き渡され、島津家の人力委より命は助かり、八丈島に流刑となった。
秀家は八丈島で50年も過ごし、1655年、84歳で死去した。
関ヶ原の戦いに参戦した大名の誰よりも長生きをしたとのことだ。
磯田‘s Eyeによると、豪姫は八丈島への同行はできず、実家の加賀前田家からの生活物資を八丈島に送り生活を支えていたそうだ。
そういうこともあって、八丈島の海岸では秀家と豪姫の像が寄り添っているとのこと、
それがこの写真である。
八丈島の秀家と2人の息子のもとには豪姫の絵があったそうだ。
それがこの絵である。2人の息子が母恋しさに絵を撫でていたため額の部分が薄くなったとの逸話もある。
こちらは宇喜多秀忠の略年普である。
1606年八丈島に流され、1655年に八丈島で亡くなる間が白紙なのも辛いなあと思ったのである。
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