2026岡山旅行記1日目その23~豊臣ファミリーとして活躍~
14時47分、岡山城4階は、岡山戦国の表舞台へ~宇喜多直家と秀家~、をテーマにしていて、色々な展示を見ていた。

宇喜多家の家来たち~ご先祖様を探してみよう~、である。

もっとも、私の父は姫路で、母が大分だから、探しもしなかったのである。

宇喜多秀家と豊臣秀吉、である。

宇喜多秀家は父である直家の死により10歳にも満たない年齢で家督を継いだ。
羽柴(豊臣)秀吉の宇喜多家への期待は、幼い当主に「秀」の字を与え、最愛の養女である豪姫との縁組を約束したことにも表れている。

備中高松城水攻めの範囲と布陣である。

こちらはそのときの毛利の防衛線境目7城である。
備中松山城は入っていないんだなと思った。まあ、この時はまだ築城されていかったのかもしれないが。

この備中高松城の水攻めの成功により中国大返し、明智光秀討伐、天下統一につながるのだから、備中松山城にも行ってみないといけないとも思った。

その水攻めの後は今も残っているとのこと。

長大な堤防を築き、川をせきとめて水浸しにしたとのことで、堤防の跡は今でもその一部を見ることができる。
特に、空から見るとよく分かるそうだ。

秀家の母は女城主とのとこだ。
医で冷えが家督を継いだのは10歳にも満たないから母親のおふくが豊臣秀吉の力を背景にクセの強い家来たちを上手にまとめ、あたりの戦国武将にも睨みをきかせていたそうだ。

豊臣ファミリーとしての活躍、である。

秀家が幼いにも関わらず、宇喜多軍は羽柴(豊臣)秀吉に従い各地で参戦し、多くの武功を上げ、秀吉の天下取りを支えた。
そして、前田利家の四女で幼くして秀吉の養女になった豪姫と秀家が結婚した。

宇喜多秀家、豪姫の関係図である。
前田利家とも繋がっているのが大きい。

明への最初の出兵である文禄の役では自ら海を渡るつもりだった秀吉に代わって総大将を務めるほど立場も高くなった。
その間であっても岡山城や城下町の建設の指示を出していたと言われている。

秀家が武家屋敷にすると指示した天瀬は江戸時代も武家屋敷であった。

宇喜多秀家の絶頂期、である。

文禄の役、慶長の役と2度の大陸出兵の間、秀家の簡易は中納言に昇進し、以後「備前中納言」と呼ばれた。
その後、五大老と呼ばれる5人の有力大名に選ばれ、岡山城も完成し、絶頂期を迎えた。
もっとも、その2年後には関ヶ原の戦いが始まるのである。

常陸の国の武士が岡山を通りかかり、岡山城を見た感想を手紙で「京都のようだ」と記したそうだ。
但し、この方は広島城を見てもおおかた京都に似ていると記したり、厳島についても町中の様子は京に劣らないと記して、褒めているので、半分はアテにならないが、少しは京都に似ていたのではということだ。

4階の平面図である。

階段で3階に降りることにしたのである。

3階はこんな感じだ。
3階は、それぞれの関ヶ原、をテーマにしているのであった。
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もっとも、私の父は姫路で、母が大分だから、探しもしなかったのである。
宇喜多秀家と豊臣秀吉、である。
宇喜多秀家は父である直家の死により10歳にも満たない年齢で家督を継いだ。
羽柴(豊臣)秀吉の宇喜多家への期待は、幼い当主に「秀」の字を与え、最愛の養女である豪姫との縁組を約束したことにも表れている。
備中高松城水攻めの範囲と布陣である。
こちらはそのときの毛利の防衛線境目7城である。
備中松山城は入っていないんだなと思った。まあ、この時はまだ築城されていかったのかもしれないが。
この備中高松城の水攻めの成功により中国大返し、明智光秀討伐、天下統一につながるのだから、備中松山城にも行ってみないといけないとも思った。
その水攻めの後は今も残っているとのこと。
長大な堤防を築き、川をせきとめて水浸しにしたとのことで、堤防の跡は今でもその一部を見ることができる。
特に、空から見るとよく分かるそうだ。
秀家の母は女城主とのとこだ。
医で冷えが家督を継いだのは10歳にも満たないから母親のおふくが豊臣秀吉の力を背景にクセの強い家来たちを上手にまとめ、あたりの戦国武将にも睨みをきかせていたそうだ。
豊臣ファミリーとしての活躍、である。
秀家が幼いにも関わらず、宇喜多軍は羽柴(豊臣)秀吉に従い各地で参戦し、多くの武功を上げ、秀吉の天下取りを支えた。
そして、前田利家の四女で幼くして秀吉の養女になった豪姫と秀家が結婚した。
宇喜多秀家、豪姫の関係図である。
前田利家とも繋がっているのが大きい。
明への最初の出兵である文禄の役では自ら海を渡るつもりだった秀吉に代わって総大将を務めるほど立場も高くなった。
その間であっても岡山城や城下町の建設の指示を出していたと言われている。
秀家が武家屋敷にすると指示した天瀬は江戸時代も武家屋敷であった。
宇喜多秀家の絶頂期、である。
文禄の役、慶長の役と2度の大陸出兵の間、秀家の簡易は中納言に昇進し、以後「備前中納言」と呼ばれた。
その後、五大老と呼ばれる5人の有力大名に選ばれ、岡山城も完成し、絶頂期を迎えた。
もっとも、その2年後には関ヶ原の戦いが始まるのである。
常陸の国の武士が岡山を通りかかり、岡山城を見た感想を手紙で「京都のようだ」と記したそうだ。
但し、この方は広島城を見てもおおかた京都に似ていると記したり、厳島についても町中の様子は京に劣らないと記して、褒めているので、半分はアテにならないが、少しは京都に似ていたのではということだ。
4階の平面図である。
階段で3階に降りることにしたのである。
3階はこんな感じだ。
3階は、それぞれの関ヶ原、をテーマにしているのであった。
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この記事へのコメント
備中高松城の水攻めの痕跡は見てみたいですね。
重機の無い時代に、どんだけの規模の工事だったのか、
それを実感したいです。
ワタクシのご先祖様は、関ヶ原の戦いの15年ほど前の小田原攻めの際に不戦敗で帰農。。。
なので宇喜多勢には居ません。。。。。
ウチの先祖は曾祖父さんまでしか知らないです。
それより前なんて・・・。