2026岡山旅行記1日目その22~これだけ城があったというのも信じられない~
14時44分、岡山城の4階に降りてきた。
4階は、岡山戦国の表舞台へ~宇喜多直家と秀家~をテーマにしている。

岡山開府の祖宇喜多直家、岡山ここに始まる、である。

直家は、なぜ岡山を選んだのかについては、これから栄える条件をもった土地、敵対する西の備中やその背後にいる毛利氏に対抗するため、山城を築く戦い方が部屋に城を築く戦い方に代わっていく中、備前で初めて平野に目をつけたとのことだ。

1570年に宇喜多直家が当時石山にあった岡山城を手に入れ、1573年に本拠とした。
1575年に天神山城を落とし、浦上宗景を追放して、備前を統一した。

宇喜多家の家系図である。

岡山戦国の表舞台へ~宇喜多直家と秀家~、である。
宇喜多秀家は豊臣秀吉一門の大大名となった。

織田と毛利のはざまで~宇喜多直家の苦悩と決断~、である。

宇喜多直家が活躍した頃の岡山城一帯は西に毛利家、東に勢力を西に伸ばそうとする織田家がいた。

宇喜多直家は当初中国地方に攻め込んできた豊臣秀吉と敵対していた。
しかし、秀吉を通じて織田方を将来の道と見定め、秀吉とともに戦国を生き抜くことにして、新たな戦いが幕をあけた。

当時の勢力図である。
これだけ城があったというのも信じられない。

宇喜多秀家岡山築城である。

宇喜多秀家は1572年に誕生し、1582年に父である直家の死により、宇喜多家の家督を継ぎ、1587年頃に豪姫と結婚した。
1597年岡山城天守が完成した。

織田信長の安土城以降、城は軍事施設だけではなく、治世の象徴として大名の力を示す城になっていった。上で見たように岡山城は天守を始め金箔瓦が葺かれ、天下人豊臣秀吉の大大名の居城としてふさわしい城となった。

こちらはこれまで発掘された岡山城の金箔瓦の中で一番金箔が輝く金箔の軒平瓦である。

今まで出てきた最初のお城があった石山は岡山のすぐ西隣にあり、天神山はそのすぐ北(北北西)にある。
とはいえ、関ヶ原の戦いでは西軍の主力として出陣するも敗戦した。
そのため、1606年に宇喜多秀家は八丈島に流刑される。

そのときに詠んだ和歌である。

武蔵野は 行けども あきの終ぞなき
いかなる風か すへに吹らん
である。

こちらは宇喜多秀家の正室である豪姫の肖像画である。

奇麗な保存状態だなと思ったら、1988年に生まれた三善千愛氏のイラストであった。

扉を開けて外を見た。

南側の風景である。

扉を開けた後は展示品保護のため必ず閉めなければならない。
さらに進んだのである。
事務所サイト
ブログランキングに参加しています。
Facebookのいいねを押すよりも
こちらをワンクリックしてくだされば励みになります。
↓

にほんブログ村
4階は、岡山戦国の表舞台へ~宇喜多直家と秀家~をテーマにしている。
岡山開府の祖宇喜多直家、岡山ここに始まる、である。
直家は、なぜ岡山を選んだのかについては、これから栄える条件をもった土地、敵対する西の備中やその背後にいる毛利氏に対抗するため、山城を築く戦い方が部屋に城を築く戦い方に代わっていく中、備前で初めて平野に目をつけたとのことだ。
1570年に宇喜多直家が当時石山にあった岡山城を手に入れ、1573年に本拠とした。
1575年に天神山城を落とし、浦上宗景を追放して、備前を統一した。
宇喜多家の家系図である。
岡山戦国の表舞台へ~宇喜多直家と秀家~、である。
宇喜多秀家は豊臣秀吉一門の大大名となった。
織田と毛利のはざまで~宇喜多直家の苦悩と決断~、である。
宇喜多直家が活躍した頃の岡山城一帯は西に毛利家、東に勢力を西に伸ばそうとする織田家がいた。
宇喜多直家は当初中国地方に攻め込んできた豊臣秀吉と敵対していた。
しかし、秀吉を通じて織田方を将来の道と見定め、秀吉とともに戦国を生き抜くことにして、新たな戦いが幕をあけた。
当時の勢力図である。
これだけ城があったというのも信じられない。
宇喜多秀家岡山築城である。
宇喜多秀家は1572年に誕生し、1582年に父である直家の死により、宇喜多家の家督を継ぎ、1587年頃に豪姫と結婚した。
1597年岡山城天守が完成した。
織田信長の安土城以降、城は軍事施設だけではなく、治世の象徴として大名の力を示す城になっていった。上で見たように岡山城は天守を始め金箔瓦が葺かれ、天下人豊臣秀吉の大大名の居城としてふさわしい城となった。
こちらはこれまで発掘された岡山城の金箔瓦の中で一番金箔が輝く金箔の軒平瓦である。
今まで出てきた最初のお城があった石山は岡山のすぐ西隣にあり、天神山はそのすぐ北(北北西)にある。
とはいえ、関ヶ原の戦いでは西軍の主力として出陣するも敗戦した。
そのため、1606年に宇喜多秀家は八丈島に流刑される。
そのときに詠んだ和歌である。
武蔵野は 行けども あきの終ぞなき
いかなる風か すへに吹らん
である。
こちらは宇喜多秀家の正室である豪姫の肖像画である。
奇麗な保存状態だなと思ったら、1988年に生まれた三善千愛氏のイラストであった。
扉を開けて外を見た。
南側の風景である。
扉を開けた後は展示品保護のため必ず閉めなければならない。
さらに進んだのである。
事務所サイト
ブログランキングに参加しています。
Facebookのいいねを押すよりも
こちらをワンクリックしてくだされば励みになります。
↓
にほんブログ村
この記事へのコメント