2026岡山旅行記1日目その21~6階の華頭窓から景色を見る~
14時36分、岡山城の最上階である6階に来て、窓の外の風景を見ていた。

こちらは東側の風景である。下に見えるのは旭川である。
奥に見えるのは後楽園である。
岡山城の最上階は、浜松城(https://gyo-nakamura.seesaa.net/article/519554275.html)等と異なり、外に出ることはできない。
建物の窓から外を見るだけである。

この窓を華頭窓という。
この華頭窓(花頭窓)は元々あったことから当時のように再現された。
私の写真では分かりにくいが上部が花弁のように丸みを帯びているのが特徴である。
禅宗寺院の建築様式で、中国から伝わり、織田信長や豊臣秀吉の頃から城にも用いられたとのことだ。

上部がこんな感じである。

北側の風景を見ると左手に先ほど私たちが渡った月見橋が見えた。

烏城岡山城の魅力、最上階の姿、である。
令和の最上階は華頭窓や壁の唐紙の再現を試みる反面、耐震構造にするため、4隅の柱や階段の上の脇階段ができた。

北西側の風景である。左手の楕円形のビルは岡山シンフォニービルである。

西側にやって来た。
下には藩政の場であった表書院跡が見える。真ん中左下には泉水も見える。
真っ直ぐ西に進めば岡山駅である。

1周して南にやって来た。
正面には県庁が見える。
下に降りることにした。

5階のテーマは今につながる城下町である。

先ほどのスワンのボートが再び見えた。待っている人もいるようだ。

岡山という都市の歴史は、宇喜多直家が岡山城の前身となる石山の城を手に入れたことから始まり、本格的な城下町の建設は直家の子である秀家が行った。

岡山城から「まち」ができた、の説明書きである。
旭川の流れによってできた平野にあるまち・岡山。かつては洪水のたびに川の流れがかわるような土地だった。地質の良いところには、弥生時代からの遺跡もあったそうだ。

宇喜多秀家が石山から岡山の丘に本丸を築いた。
小早川秀秋が短い城主の機関に城下町を広げ、池田家により今のまちの元ができた。
岡山城が町のシンボルになった。

町のはじまり宇喜多直家の説明書きである。
宇喜多直家の躍進と児島湾干拓による海岸線の変化が図により表されている。

1周して再び県庁が見えた。また、鯱も近くに見えた。

上を見ると天気が悪い。
今日、備中松山城に行かなくて正解だ。

階段の手前に鯱が展示されていた。

ライトアップを撮影するならココという親切な案内が出ていた。

奥に城下町岡山歴史発見マップ~今につながらるまちづくりを行った池田光政、そして綱政~が展示されていた。
岡山駅の少し東側から旭川に掛けてまちづくりが行われていたようだ。

街路の多くは江戸時代の道筋がそのまま使われているとのこと。
1707年の資料によると藩の武士は家族や召使いを含めて22,628人、町人は役3万人とのことだ。

旭川の改修や堀づくりは多く分かれた古い旭川の川筋を利用したそうだ。

8つの金拍桃瓦と8つもある鯱瓦の説明書きである。
桃は、中国では不老長寿の象徴と云われていて、日本でもお城の瓦のデザインにも使われることがあり、現存十二天守の犬山城でもみることができるとのこと。
鯱瓦といえば、天守の一番上に2つあるイメージだが、岡山城天守ではこの図の通り東西南北にそれぞれ2つの計8つある。

せっかくなので、鯱瓦と記念写真を撮った。

そして、4階に降りることにしたのである。
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岡山城の最上階は、浜松城(https://gyo-nakamura.seesaa.net/article/519554275.html)等と異なり、外に出ることはできない。
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この窓を華頭窓という。
この華頭窓(花頭窓)は元々あったことから当時のように再現された。
私の写真では分かりにくいが上部が花弁のように丸みを帯びているのが特徴である。
禅宗寺院の建築様式で、中国から伝わり、織田信長や豊臣秀吉の頃から城にも用いられたとのことだ。
上部がこんな感じである。
北側の風景を見ると左手に先ほど私たちが渡った月見橋が見えた。
烏城岡山城の魅力、最上階の姿、である。
令和の最上階は華頭窓や壁の唐紙の再現を試みる反面、耐震構造にするため、4隅の柱や階段の上の脇階段ができた。
北西側の風景である。左手の楕円形のビルは岡山シンフォニービルである。
西側にやって来た。
下には藩政の場であった表書院跡が見える。真ん中左下には泉水も見える。
真っ直ぐ西に進めば岡山駅である。
1周して南にやって来た。
正面には県庁が見える。
下に降りることにした。
5階のテーマは今につながる城下町である。
先ほどのスワンのボートが再び見えた。待っている人もいるようだ。
岡山という都市の歴史は、宇喜多直家が岡山城の前身となる石山の城を手に入れたことから始まり、本格的な城下町の建設は直家の子である秀家が行った。
岡山城から「まち」ができた、の説明書きである。
旭川の流れによってできた平野にあるまち・岡山。かつては洪水のたびに川の流れがかわるような土地だった。地質の良いところには、弥生時代からの遺跡もあったそうだ。
宇喜多秀家が石山から岡山の丘に本丸を築いた。
小早川秀秋が短い城主の機関に城下町を広げ、池田家により今のまちの元ができた。
岡山城が町のシンボルになった。
町のはじまり宇喜多直家の説明書きである。
宇喜多直家の躍進と児島湾干拓による海岸線の変化が図により表されている。
1周して再び県庁が見えた。また、鯱も近くに見えた。
上を見ると天気が悪い。
今日、備中松山城に行かなくて正解だ。
階段の手前に鯱が展示されていた。
ライトアップを撮影するならココという親切な案内が出ていた。
奥に城下町岡山歴史発見マップ~今につながらるまちづくりを行った池田光政、そして綱政~が展示されていた。
岡山駅の少し東側から旭川に掛けてまちづくりが行われていたようだ。
街路の多くは江戸時代の道筋がそのまま使われているとのこと。
1707年の資料によると藩の武士は家族や召使いを含めて22,628人、町人は役3万人とのことだ。
旭川の改修や堀づくりは多く分かれた古い旭川の川筋を利用したそうだ。
8つの金拍桃瓦と8つもある鯱瓦の説明書きである。
桃は、中国では不老長寿の象徴と云われていて、日本でもお城の瓦のデザインにも使われることがあり、現存十二天守の犬山城でもみることができるとのこと。
鯱瓦といえば、天守の一番上に2つあるイメージだが、岡山城天守ではこの図の通り東西南北にそれぞれ2つの計8つある。
せっかくなので、鯱瓦と記念写真を撮った。
そして、4階に降りることにしたのである。
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