2026岡山旅行記1日目その18~表書院跡を見ている最中に小雨が降る~
14時17分、岡山城の中の段にある表書院跡に来ていた。

表書院は江戸時代に岡山藩の政治が行われた御殿があった場所で、大小合わせて60を超える部屋があった所である。
藩主は住居である御殿から渡り廊下を下って北西の招雲閣に入り、南座敷で政務を行っていたそうだ。
廊下に面した徒番所はj王内の警備や雑用に当たる家臣の詰所だったそうだ。
小雨が降る中、色々と見ていた。

こちらは中奥詰所であった。

こちらは中ノ間三ノ間であった。藩主がいるのはもっと奥だろう。
三ノ間が一番下っ端の役人がいる所かな。

こちらは坪庭であった。

こちらは床と炉であった。

その奥には数寄屋(茶室)と炉であった。

表書院の中庭を風雅にするために泉水があり、復元されたのがこちらである。

発掘調査で出土した以降は地下に保存されているとのこと。
北東の井戸から備前焼の土管で水を引き、水が漏れないようにそこに漆喰を貼って中の島からその水が沸き出る仕組みにしていた。

泉水から離れた。

こちらは中ノ間上ノ間であった。

こちらは床であった。

こちらは庇であった。

こちらは縁側であった。

こちらは子息方詰所であった。
何をするところかよく分からない。

こちらは板ノ間であった。

こちらは竹ノ間であった。
うん?竹ノ間って聞いたことが無い。
親しい友人に聞こうと思ったら、離れた所で折り畳みの傘を差して私を待っていたため、聞くことができなかった。
後日、調べてみても特にこれといった情報が無くてわからなかった。

こちらは巻藁ノ間であった。

こちらは鎗ノ間であった。
敵襲に備えて槍を置いていた、つまり、武器庫なのだろう。

一通り見終えて、南の不明門の方に向かった。
親しい友人と合流した。
もちろん、「遅いがな」と文句を言われた。
先ほどの竹の間を知っているか聞いたところ、「知らない」と返された。
続けて、「この雨やから今日備中松山城に行かなくて正解やな」と言うと「そもそも行かないのが政界では」と返された。

大きな門である。また門の左の茶色の石垣も大きい。
その隣の石垣と随分色が違うし、年季の入り方も違う。
後から汲んだ石垣であることは一目瞭然だ。

不明門の前までやって来た。

不明門を越えれば本段である。

本段には藩主が暮らす御殿があり、限られた人しか入れなかった。
また、藩主の移動はこの不明門を越えて表書院に行くのではなく、廊下門を使って移動したと云われている。
そのため、この門は普段は閉ざされていたことから、不明門と呼ばれていたそうだ。
門は税時時代に取り壊されたが、1966年(昭和41年)に再現された。
南の方角を見た。

横に長い建物は岡山県庁である。
富山城跡もそうだったし(https://gyo-nakamura.seesaa.net/article/500548598.html)、佐賀城跡もそうだし(https://gyo-nakamura.seesaa.net/article/513690685.html)、地元大阪城でもそうだが、お城の近くに県庁や府庁があるのはよくある話だ。

不明門を越えることにしたのである。
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表書院は江戸時代に岡山藩の政治が行われた御殿があった場所で、大小合わせて60を超える部屋があった所である。
藩主は住居である御殿から渡り廊下を下って北西の招雲閣に入り、南座敷で政務を行っていたそうだ。
廊下に面した徒番所はj王内の警備や雑用に当たる家臣の詰所だったそうだ。
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こちらは中奥詰所であった。
こちらは中ノ間三ノ間であった。藩主がいるのはもっと奥だろう。
三ノ間が一番下っ端の役人がいる所かな。
こちらは坪庭であった。
こちらは床と炉であった。
その奥には数寄屋(茶室)と炉であった。
表書院の中庭を風雅にするために泉水があり、復元されたのがこちらである。
発掘調査で出土した以降は地下に保存されているとのこと。
北東の井戸から備前焼の土管で水を引き、水が漏れないようにそこに漆喰を貼って中の島からその水が沸き出る仕組みにしていた。
泉水から離れた。
こちらは中ノ間上ノ間であった。
こちらは床であった。
こちらは庇であった。
こちらは縁側であった。
こちらは子息方詰所であった。
何をするところかよく分からない。
こちらは板ノ間であった。
こちらは竹ノ間であった。
うん?竹ノ間って聞いたことが無い。
親しい友人に聞こうと思ったら、離れた所で折り畳みの傘を差して私を待っていたため、聞くことができなかった。
後日、調べてみても特にこれといった情報が無くてわからなかった。
こちらは巻藁ノ間であった。
こちらは鎗ノ間であった。
敵襲に備えて槍を置いていた、つまり、武器庫なのだろう。
一通り見終えて、南の不明門の方に向かった。
親しい友人と合流した。
もちろん、「遅いがな」と文句を言われた。
先ほどの竹の間を知っているか聞いたところ、「知らない」と返された。
続けて、「この雨やから今日備中松山城に行かなくて正解やな」と言うと「そもそも行かないのが政界では」と返された。
大きな門である。また門の左の茶色の石垣も大きい。
その隣の石垣と随分色が違うし、年季の入り方も違う。
後から汲んだ石垣であることは一目瞭然だ。
不明門の前までやって来た。
不明門を越えれば本段である。
本段には藩主が暮らす御殿があり、限られた人しか入れなかった。
また、藩主の移動はこの不明門を越えて表書院に行くのではなく、廊下門を使って移動したと云われている。
そのため、この門は普段は閉ざされていたことから、不明門と呼ばれていたそうだ。
門は税時時代に取り壊されたが、1966年(昭和41年)に再現された。
南の方角を見た。
横に長い建物は岡山県庁である。
富山城跡もそうだったし(https://gyo-nakamura.seesaa.net/article/500548598.html)、佐賀城跡もそうだし(https://gyo-nakamura.seesaa.net/article/513690685.html)、地元大阪城でもそうだが、お城の近くに県庁や府庁があるのはよくある話だ。
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