2025静岡旅行記3日目その4~現代人の私たちに竪穴式住居の暮らしができるのだろうか~
11時23分、登呂遺跡の祭壇を見え終えて、再び、住居の方に向かって歩いていた。
すぐに住居の近くに来た。
iPhone14で撮ってみるとこんな感じに見える。
こちらは2号住居である。
1950年(昭和25年)に発見された住居後である。
周堤の外周には排水用の溝が掘られ、住居内への水の浸透を防いでいる。
中に入ってみることにした。
ここでもかやの匂いがする。
デジカメでは映りが悪いので、iPhone14で撮ってみた。
上はこんな感じだ。
上には燻すための食材でも置いているのだろうか。
すぐに出て来た。
西側に移動した。
こちらは扉が閉まっていた。
3号住居である。1948年(昭和23年)に発見された住居跡で、羽根板、炉跡、柱穴などが良好に残っていたため、1950年(昭和25年)の登呂遺跡で初めての復原住居設計の基礎になったとのことだ
もっとも、扉が閉まっているので、中を見ることはできなかった。
最後の4号住宅の方に向かって歩いた。
こちらが4号住居である。左手奥に見える薄い橙色?の建物が最初に入った写真の説明が多かったガイダンス施設である。
中に入ってみることにした。
デジカメのフラッシュを焚くとこんな感じだ。1号住居、2号住居に比べると少し狭い気がした。
なので、すぐに出て来た。
北側に行くと1号倉庫があった。火起こしが行われていた2号倉庫に比べれば小さい。
最初はこれぐらいの倉庫を造ったが、足りなくて是より大きめの2号倉庫を造ったのであろう。
大体見終えたので、地図を見て登呂遺跡博物館に行ってみようとなった。
南に向かって歩いた。
左手に見えるのが博物館のようだ。
しかし、一直線に突っ切って歩くことはできない。
遠回りしながら歩いた。
住居群である。
今日みたいな小雨のときは雨が中に入らないのだろうけど大雨の日はどうだったんだろうな。
そもそも、クーラーに慣れた現代人の私たちは竪穴住居の暮らしができるのだろうか。
今ほど夏は熱くはないのかもしれないいけれど。
そんなことを思いながら歩いていると南東側に傘を差して博物館に向かっている家族連れが見えた。
看板が見えた。その奥は田んぼである。
出来たお米は静岡市が所有することになるのか?
そもそも、誰が作っているのか、博物館の職員が作っているのだろうか。
だとすると、米作り体験や収穫体験もやっているのかな。
それとも、復元水田だから、食べなくても良いのか。
また、高床式倉庫と竪穴式住居が見えた。
この辺りはメモリアル広場という。
少し進むと歌碑があった。
とろをとめ 安部をどころか 歌垣の
うた聲にまじる 遠つ汐さる
日本を代表する歌人の佐佐木信綱が1947年(昭和22年)8月に発掘中の登呂遺跡を訪れた際に詠んだものである。
若い男女が集まり踊り、求愛の歌を交わしていると、その声に遠く波音が聞こえる様を詠んだものだそうだ。
近くを見ると登呂の火起こしの銅像があったのである。
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この記事へのコメント
登呂は、吉野ケ里と比べると環濠や物々しい柵なども無く、
とっても平和だったのでしょうね。
軍事大国の支配地だったのでしょうか。
この時代に、非武装中立なんてのは成り立たないでしょうから。
吉野ヶ里遺跡で見た見張り台もなさそうですし。