2025静岡旅行記3日目その2~偶然の賜物で発見される~
10時45分過ぎ、登呂遺跡行きのバスは静岡駅南口から出発した。

静岡駅南口にある大通りを南に走った。

この通りを石田街道というそうだ。
10分ほど走って左折した。
10時59分、登呂遺跡に到着した。

バスを降りた。

そして、帰りのバスのための時刻表をスマホに撮っておいた。
こういうのが意外と役に立つのだ。

向こうに竪穴式住居が見える。

左手(東側)には高床式倉庫(後で知ったのだが祭殿)が見えた。

右手(西側)に歩くと地図があった。
国特別史跡登呂遺跡と書かれていた。
登呂遺跡は約1900年前の弥生時代後期の集落遺跡で、太平洋戦争中の1943年(昭和18年)に発見された。
1947年(昭和22年)から1950年(昭和25年)に学際的な発掘調査により弥生時代の人々の暮らしと米作りの様子が日本で初めて明らかとなり、1952年(昭和27年)に特別史跡に指定された。
ちょうど、ガイダンス施設という建物が反対側にあったので入ってみた。

登呂遺跡は弥生時代の集落の典型と考えられていたが、弥生時代の研究が進むとそれまでの登呂遺跡像に疑問や反対意見が出て来て再検証のため1999年(平成11年)から2003年(平成15年)に懸けて再発掘調査が行われた。
その時の写真が展示されている。

公園・遺跡・博物館が一体となった史跡を目指して、1972年(昭和47年)に登呂遺跡博物館が開館した。
その当時の写真である。

戦時中の1943年(昭和18年)、現在の登呂遺跡の北側に軍需工場を作るために土を掘ったところ水田跡や土器や木の杭列などが発見された。
日本で初めて見つかった弥生時代の水田跡とのことだ。
偶然の賜物である。
うん、反対側から見れば良かった。

パンフレットが置かれていた。

もちろん、それを取った。

建物を出て舗装された道を歩いた。

うん、テニスボールが落ちていると思ったら、栗である。
この悪天候のために落ちたものだろう。
親しい友人が「取ってみたら」と言ったので「痛いやろ」と返すと、「まだ硬くないのでは」と言ってきた。
「その手には乗らん」とさらに返した。

もちろん、近くにはクリの木がある。

東の方に高床式倉庫や竪穴式住居が見えたが、いかんせん、まだ天気が悪いので映りも悪い。

iPhone14でも撮ってみた。
右手の方で何か人が集まっている。行ってみることにした。

こういう道を歩いた。

おじさん(ガイドの方)が何かされているようだ。

人が集まっているのは2号高床倉庫である。
といっても、当たり前だが復元されたものである。
2000年(平成12年)の再調査で発見された6本柱の高床倉庫跡である。
穀物類の保管を目的とした建物で各々の柱には各丸方形の「ネズミ返し」が備えられている。

前ではおじさんが火おこしをしていた。
なので、前の方に行ってみることにしたのである。
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静岡駅南口にある大通りを南に走った。
この通りを石田街道というそうだ。
10分ほど走って左折した。
10時59分、登呂遺跡に到着した。
バスを降りた。
そして、帰りのバスのための時刻表をスマホに撮っておいた。
こういうのが意外と役に立つのだ。
向こうに竪穴式住居が見える。
左手(東側)には高床式倉庫(後で知ったのだが祭殿)が見えた。
右手(西側)に歩くと地図があった。
国特別史跡登呂遺跡と書かれていた。
登呂遺跡は約1900年前の弥生時代後期の集落遺跡で、太平洋戦争中の1943年(昭和18年)に発見された。
1947年(昭和22年)から1950年(昭和25年)に学際的な発掘調査により弥生時代の人々の暮らしと米作りの様子が日本で初めて明らかとなり、1952年(昭和27年)に特別史跡に指定された。
ちょうど、ガイダンス施設という建物が反対側にあったので入ってみた。
登呂遺跡は弥生時代の集落の典型と考えられていたが、弥生時代の研究が進むとそれまでの登呂遺跡像に疑問や反対意見が出て来て再検証のため1999年(平成11年)から2003年(平成15年)に懸けて再発掘調査が行われた。
その時の写真が展示されている。
公園・遺跡・博物館が一体となった史跡を目指して、1972年(昭和47年)に登呂遺跡博物館が開館した。
その当時の写真である。
戦時中の1943年(昭和18年)、現在の登呂遺跡の北側に軍需工場を作るために土を掘ったところ水田跡や土器や木の杭列などが発見された。
日本で初めて見つかった弥生時代の水田跡とのことだ。
偶然の賜物である。
うん、反対側から見れば良かった。
パンフレットが置かれていた。
もちろん、それを取った。
建物を出て舗装された道を歩いた。
うん、テニスボールが落ちていると思ったら、栗である。
この悪天候のために落ちたものだろう。
親しい友人が「取ってみたら」と言ったので「痛いやろ」と返すと、「まだ硬くないのでは」と言ってきた。
「その手には乗らん」とさらに返した。
もちろん、近くにはクリの木がある。
東の方に高床式倉庫や竪穴式住居が見えたが、いかんせん、まだ天気が悪いので映りも悪い。
iPhone14でも撮ってみた。
右手の方で何か人が集まっている。行ってみることにした。
こういう道を歩いた。
おじさん(ガイドの方)が何かされているようだ。
人が集まっているのは2号高床倉庫である。
といっても、当たり前だが復元されたものである。
2000年(平成12年)の再調査で発見された6本柱の高床倉庫跡である。
穀物類の保管を目的とした建物で各々の柱には各丸方形の「ネズミ返し」が備えられている。
前ではおじさんが火おこしをしていた。
なので、前の方に行ってみることにしたのである。
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この記事へのコメント
登呂遺跡と吉野ケ里遺跡は、同じ弥生時代とは言え何百年もの差(登呂が後)がありますが、
そのあたりを感じさせるようなものはありましたでしょうか。
それにしても、、
双方で雨にたたられちゃったのですね。。
この時代の100年200年は今と違って大差ないのかも。