2025静岡旅行記1日目その13~浜松城を秀吉好みに作り替えられた時の気持ちは・・・~
14時22分、浜松城の1階で色々と展示物等を見ていた。

「家康が過ごした浜松をめぐる」である。
家康は29歳から45歳まで浜松で過ごしている。

こちらが家康の子供である。
築山殿が正室で、朝日姫が後室で、16人の側室がいた。
子供は11男、5女の16人である。
正室と後室がいて、さらに側室が16人もおったのに、結局、子供が16人では少ないのかもしれない。

これらがそのゆかりの地である。

こちらは浜松城来場記念処である。
要はお土産屋さんである。
後で寄ってみよう。

2階へと階段を登った。
2階でも色々と展示がされていた。

「浜松城と城下町の変遷」である。
今川氏統治下、徳川氏統治下、堀尾氏統治下、譜代大名統治下、それぞれの時代の図が示されていた。よく分からなかった。
奥では映像が流れていた。

家康の城は本丸、二の丸、旧引間城が東西に連なっていた。
北側は湿地で、天守は無く、堀や土塁に囲われていた。

東海道が整備されていった。

それに伴い、城下町が南に拡大された。

「発掘が語る浜松城と城下町」である。

こちらは引間城と浜松城に関する出土品である。

こちらは譜代大名の浜松城に関する出土品である。

江戸時代の浜松城に関わる出土品は瓦が大多数とのことだ。
瓦には城主を務めた大名の家紋が施されたものがみられる。
こちらは太田氏が城主を務めたときの桔梗紋軒丸瓦である。

こちらは浜松城下町の出土品である。

これらの出土品により浜松城の城下町の形成は遅くとも徳川家康が浜松城を拠点とした16世紀後半にさかのぼることが明らかになったそうだ。

「堀尾吉晴による浜松城の改築」である。
1590年、徳川家康に代わり城主となったのは豊臣秀吉家臣である堀尾吉晴である。秀吉好みの天守を持つ城に作り替えた。
内心、家康はどう思っていたのであろうか。
親しい友人に聞くと「そりゃよくは思わなかったかも、いや、そんなことで腹を立てていたら、鳴くまで待とうホトトギスという性格にはならんな。何とも思っていないのかも。それくらいでないと天下は取れない。あなたでは無理やな」と返された。
私も「私なら天下取ったら絶対に仕返しするで」と言った。

さて、こちらでは写真や出土品が展示されていた。

本丸南側の堀の地層の写真が展示されていた。

こちらは甲冑である。誰も甲冑かは書いていないけれど江戸幕府2代将軍徳川秀忠のものではないだろうか。

徳川秀忠は家康の三男で、浜松で生まれた唯一の天下人である。

こちらは献上品である。

下の瓶は伊万里鍋島焼である。
確かに、伊万里焼らしい感じがする。

献上の儀も展示されていた。

刀と鉄砲である。

何て書いてあるのか分からない。

重箱は三葉葵紋入りである。そう、徳川家の家紋である。

3階に上がって来たのである。
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「家康が過ごした浜松をめぐる」である。
家康は29歳から45歳まで浜松で過ごしている。
こちらが家康の子供である。
築山殿が正室で、朝日姫が後室で、16人の側室がいた。
子供は11男、5女の16人である。
正室と後室がいて、さらに側室が16人もおったのに、結局、子供が16人では少ないのかもしれない。
これらがそのゆかりの地である。
こちらは浜松城来場記念処である。
要はお土産屋さんである。
後で寄ってみよう。
2階へと階段を登った。
2階でも色々と展示がされていた。
「浜松城と城下町の変遷」である。
今川氏統治下、徳川氏統治下、堀尾氏統治下、譜代大名統治下、それぞれの時代の図が示されていた。よく分からなかった。
奥では映像が流れていた。
家康の城は本丸、二の丸、旧引間城が東西に連なっていた。
北側は湿地で、天守は無く、堀や土塁に囲われていた。
東海道が整備されていった。
それに伴い、城下町が南に拡大された。
「発掘が語る浜松城と城下町」である。
こちらは引間城と浜松城に関する出土品である。
こちらは譜代大名の浜松城に関する出土品である。
江戸時代の浜松城に関わる出土品は瓦が大多数とのことだ。
瓦には城主を務めた大名の家紋が施されたものがみられる。
こちらは太田氏が城主を務めたときの桔梗紋軒丸瓦である。
こちらは浜松城下町の出土品である。
これらの出土品により浜松城の城下町の形成は遅くとも徳川家康が浜松城を拠点とした16世紀後半にさかのぼることが明らかになったそうだ。
「堀尾吉晴による浜松城の改築」である。
1590年、徳川家康に代わり城主となったのは豊臣秀吉家臣である堀尾吉晴である。秀吉好みの天守を持つ城に作り替えた。
内心、家康はどう思っていたのであろうか。
親しい友人に聞くと「そりゃよくは思わなかったかも、いや、そんなことで腹を立てていたら、鳴くまで待とうホトトギスという性格にはならんな。何とも思っていないのかも。それくらいでないと天下は取れない。あなたでは無理やな」と返された。
私も「私なら天下取ったら絶対に仕返しするで」と言った。
さて、こちらでは写真や出土品が展示されていた。
本丸南側の堀の地層の写真が展示されていた。
こちらは甲冑である。誰も甲冑かは書いていないけれど江戸幕府2代将軍徳川秀忠のものではないだろうか。
徳川秀忠は家康の三男で、浜松で生まれた唯一の天下人である。
こちらは献上品である。
下の瓶は伊万里鍋島焼である。
確かに、伊万里焼らしい感じがする。
献上の儀も展示されていた。
刀と鉄砲である。
何て書いてあるのか分からない。
重箱は三葉葵紋入りである。そう、徳川家の家紋である。
3階に上がって来たのである。
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