2025舞鶴旅行記1日目その15~こんな所で支部厚生行事の場所が出て来るなんて~
14時37分、舞鶴赤れんが博物館のホフマン窯のエリアを出て来た。
すると、銀座煉瓦街の絵が展示されていた。火災に強いまちをめざした明治の都市計画と書かれていた。
絵師は三代目歌川国貞で、出版年は1873年(明治6年)である。
現在の銀座四丁目交差点の1907年(明治40年頃)の様子である。
2代目和光の時計台もある。
旧新橋駅(現汐留駅)の鉄道用レンガもある。
こちらは1872年(明治5年)以来120年振りに発見された銀座煉瓦街竣工時の煉瓦塊と木曽の伊豆産青石である。
奥には時計台、いや、よく見るとオルゴール台があった。
2階へと行くことにした。
2階もこのように展示されている。かなりの量の展示品がありそうだ。
2階には日本のれんがの歩み、舞鶴市とれんが等のコーナーがある。
見てみることにした。
日本の赤れんがの始まり①である。幕府は長崎鎔鉄所(のちに長崎製鉄所に改称)を1861年竣工させたが、ヘンドリック・ハルデスに指導により国産初の建築用赤煉瓦を焼成した。
反対側には日本のれんがの歩みというのがあった。
余り赤味がかっていないので鉄分の少ない砂を使っているのかな。
右から2番目は平戸のオランダ商館で使われているれんがである。
幕末から明治にかけて先進国に追いつくために江戸幕府や明治政府は欧米諸国から専門家を招いた。
明治期全体で延べ3000人以上のお雇い外国人が来日されたと言われている。
1865年には横須賀製鉄所を起工し赤煉瓦の生産を開始する。
英人鉄道技師リチャード・H・ブラントンは1868年(明治元年)8月に来日し、1876年(明治9年)3月帰国までに8年間に26の灯台を作った。
反対側には北海道庁旧本庁舎の模型が展示されていた。
北海道庁旧本館は1888年(明治21年)の創建以降、火災による焼失後の復旧工事や昭和43年の復原改修など幾度の改修を経て現在に至っているそうだ。
北海道庁旧本庁舎はヨーロッパではなく、アメリカの技術を導入したとのことだ。
関西における赤煉瓦の先駆けは明治元年に大阪北区で起工した造幣寮である。
現存する泉布観は造幣寮の応接所である。
この泉布観や造幣寮鋳造所玄関は以前にもこのブログに紹介した。
私が所属する大阪府行政書士会旭東支部のサマーパーティーで2017年(https://gyo-nakamura.seesaa.net/article/201708article_2.html)と2024年(https://gyo-nakamura.seesaa.net/article/504236175.html)で使用したのである。
ここでこんな縁が出て来るなんてと思った。
1870年(明治3年)に大阪城内に兵部省造兵司が設置され、長崎製鉄所から設備と職工を移動させて操業を開始。大阪砲兵工廠(こうしょう)などの建物で煉瓦が使われていた。
北海道における煉瓦製造の先駆けとしては、1872年(明治5年)函館湾西岸にある茂辺地村にある北海道開拓茂辺地煉化石製造所が煉瓦の焼成を開始したことにある。
このように展示されていて、先を進んだのである。
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