2024長崎・佐賀・福岡旅行記5日目その10~本殿は大改修なので仮殿で参拝する~
14時24分、太宰府天満宮の境内に入り、二つある太鼓橋の内の一つ目を渡り終えた。
渡り終えた所に梅の木があった。

その梅の木をよく見ると梅の木の成長に邪魔にならないように板が張られているが、板を突き破っている部分がある。
いや、突き破っているのではなく補修しているようにも見える。
菅原道真が梅をこよなく愛したから、このような感じにしたのであろうと思った。
右手を見ると末社である今王社というのがあった。太宰府には摂社・末社が37社ある。

二つ目の太鼓橋を上った。やっぱり、噴水は人工的なので要らないと思う。

二つ目の太鼓橋を渡り終えると5の鳥居が見えた。鳥居の数が多い。
浴衣を着ている人も増えて来た。

5の鳥居の上を見ると天満宮と刻まれていた。下には風鈴が見えた。正確には、風鈴の音が鳴っていたので気が付いたのだが。

暗いので、iPhone14でも撮ってみた。

その風鈴の下を通り抜けることにした。風鈴の値が心地よいのだが、ちょっと量が多いかため、音がバラバラすぎる。

風鈴の下を通り抜けて見えてきたのが、楼門である。
この楼門は、元々は菅原道真公のひ孫である菅原輔正(すがわらのすけまさ)によって造営された。
しかし、何度か焼失し、その度に再建された。戦国時代には石田三成の寄進もあったそうだ。
現在の楼門は1914年(大正3年)に再建されたものである。楼門は2階建ての門を言うが、楼門を太鼓橋側から見ると屋根が2層、御本殿側から見ると1層とのことらしい。

楼門の手前にある手水舎に行った。

手水舎で手を清めた。さすがに、口をゆすぐのは止めて、お水を飲んだ。

楼門を越えて先に進んだ。

右手〈東側〉を見た。お守りやおみくじが売られているところである。

左手(西側)を見た。こちらもお守りやおみくじが売られているが、門もあった。西南門という。

本殿は、2027年(令和9年)に斎行する菅原道真公1125年太宰府天満宮式年大祭に向け、2023年(令和5年)5月から大改修が始まった。
そのため、仮殿で参拝をすることになる。

仮殿はこんな感じだ。

仮殿の前に来た。

iPhone14でも撮ってみた。
ここ仮殿で旅の安全とその他の諸々をお願いした。
これで、今年は1月に北野天満宮(https://gyo-nakamura.seesaa.net/article/501964787.html)、同じく、1月に大阪天満宮(https://gyo-nakamura.seesaa.net/article/502052241.html)、に訪れていることから、三大天満宮を制覇したことになる。
1年間でこの三天満宮を訪れた人はどれくらいいるのだろうか。
数百人だろうか。数千人のいるのだろうか。
ところで、菅原道真公は藤原時平の陰謀により太宰府に左遷され、903年(延喜3年)2月25日に亡くなった。遺言により亡骸は太宰府に葬られることになり、祀庿(しびょう)、すなわち、お墓を造営した。
そして、919年(延喜19年)、勅命により御社殿が造営されたのがこの地である。

御神牛像である。境内には全11体の御神牛像が奉納されている。牛は菅原道真公の亡骸牛車に乗せて運んだところ臥して動かなくなったという話から縁が深く、天神様のお使いとして大切にされているとのことだ。

ちょっと、痩せている牛だろうか。羨ましい。

小さな橋である。
そして、お守りを買ったのである。
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渡り終えた所に梅の木があった。
その梅の木をよく見ると梅の木の成長に邪魔にならないように板が張られているが、板を突き破っている部分がある。
いや、突き破っているのではなく補修しているようにも見える。
菅原道真が梅をこよなく愛したから、このような感じにしたのであろうと思った。
右手を見ると末社である今王社というのがあった。太宰府には摂社・末社が37社ある。
二つ目の太鼓橋を上った。やっぱり、噴水は人工的なので要らないと思う。
二つ目の太鼓橋を渡り終えると5の鳥居が見えた。鳥居の数が多い。
浴衣を着ている人も増えて来た。
5の鳥居の上を見ると天満宮と刻まれていた。下には風鈴が見えた。正確には、風鈴の音が鳴っていたので気が付いたのだが。
暗いので、iPhone14でも撮ってみた。
その風鈴の下を通り抜けることにした。風鈴の値が心地よいのだが、ちょっと量が多いかため、音がバラバラすぎる。
風鈴の下を通り抜けて見えてきたのが、楼門である。
この楼門は、元々は菅原道真公のひ孫である菅原輔正(すがわらのすけまさ)によって造営された。
しかし、何度か焼失し、その度に再建された。戦国時代には石田三成の寄進もあったそうだ。
現在の楼門は1914年(大正3年)に再建されたものである。楼門は2階建ての門を言うが、楼門を太鼓橋側から見ると屋根が2層、御本殿側から見ると1層とのことらしい。
楼門の手前にある手水舎に行った。
手水舎で手を清めた。さすがに、口をゆすぐのは止めて、お水を飲んだ。
楼門を越えて先に進んだ。
右手〈東側〉を見た。お守りやおみくじが売られているところである。
左手(西側)を見た。こちらもお守りやおみくじが売られているが、門もあった。西南門という。
本殿は、2027年(令和9年)に斎行する菅原道真公1125年太宰府天満宮式年大祭に向け、2023年(令和5年)5月から大改修が始まった。
そのため、仮殿で参拝をすることになる。
仮殿はこんな感じだ。
仮殿の前に来た。
iPhone14でも撮ってみた。
ここ仮殿で旅の安全とその他の諸々をお願いした。
これで、今年は1月に北野天満宮(https://gyo-nakamura.seesaa.net/article/501964787.html)、同じく、1月に大阪天満宮(https://gyo-nakamura.seesaa.net/article/502052241.html)、に訪れていることから、三大天満宮を制覇したことになる。
1年間でこの三天満宮を訪れた人はどれくらいいるのだろうか。
数百人だろうか。数千人のいるのだろうか。
ところで、菅原道真公は藤原時平の陰謀により太宰府に左遷され、903年(延喜3年)2月25日に亡くなった。遺言により亡骸は太宰府に葬られることになり、祀庿(しびょう)、すなわち、お墓を造営した。
そして、919年(延喜19年)、勅命により御社殿が造営されたのがこの地である。
御神牛像である。境内には全11体の御神牛像が奉納されている。牛は菅原道真公の亡骸牛車に乗せて運んだところ臥して動かなくなったという話から縁が深く、天神様のお使いとして大切にされているとのことだ。
ちょっと、痩せている牛だろうか。羨ましい。
小さな橋である。
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この記事へのコメント
お牛さまは11体もオワシマシマシたんですか!
ワタクシは2体しか確認できませんでした。
2回目の訪問時は、まだコロナの時期で、
果たして牛をナデナデ出来るのかと思ったら、、
「抗ウィルス・抗菌コーティング処理済み」
と書いてありました。
三大天満宮は、北野天満宮、太宰府天満宮に続く3番目の天満宮は諸説あるそうで、
大阪天満宮を含めて10社も候補があるんですって。
大阪天満宮を「三大」に入れる際は、なぜか大宰府が抜かれ、
東京の亀戸天神を入れる模様です。
(Wikipediaの日本三大天神より)
知らんけど。
天満宮のトップが太宰府という気もするので、三大天満宮の一つ入れるのも失礼かも。