2024長崎・佐賀・福岡旅行記2日目その34~長崎3泊ならここでトルコライスを食べることができたか~
17時46分、出島の旧出島神学校を見て、西へと進んだ。

何か知らないけれど木の上にもミニ出島が彫られている。

「運命の船」という彫刻である。木と思ったら、玄武岩である。
出島の過去と現在と未来を表現する3つの部分に分かれているとのことだ。

そして、振り返って、旧出島神学校の全体を見た。1878年(明治11年)に建てられ、1893年(明治26年)に増築されたのが現在の姿である。

戻って、西側に進んだ。目の前に、同じく、古い建物がある。

こちらは旧長崎内外クラブという。1899年(明治32年)にグラバー商会のトーマス・B・グラバーの息子である倉場富三郎等が発起人として、長崎に暮らす外国人と日本人の交流の場として設立された。
おお、トーマス・グラバーの倉場富三郎かと思った。

出島の中央通りを西に歩いた。
現在はレストランである。ランチタイムにはトルコライスもある。
出島に来る時間を間違えたというか、朝から来て、出島を回って、ランチをここで食べれば良かったな、それから、平和公園も訪れるというプランもあるなと思った。いやいや、そもそも、長崎2泊が短いのだと思った。
3泊だったらランチでトルコライスを食べることができたな。
まあ、今さら言っても仕方がないのだが。

それから、中央通りから南側の通りへと移動した。
カピタン部屋(オランダ商館長の宿舎)に入った際に見た裏通りを(https://gyo-nakamura.seesaa.net/article/508639937.html)、歩くことにした。右手に微かに見える白い蔵は組頭部屋・銅蔵である(https://gyo-nakamura.seesaa.net/article/509159502.html)。向こうに見える2階部分はカピタン部屋の涼所辺りだろう(https://gyo-nakamura.seesaa.net/article/508820903.html)。

振り返って、来た道を見た。左手の白い蔵が組頭部屋・銅蔵か、いや、最初の方に見た一四番蔵か(https://gyo-nakamura.seesaa.net/article/508520842.html)。

振り返ったまま、右手の方を見るとアンテナが見えた。長崎国際テレビである。読売テレビ系列である。
先を進むことにした。

井戸のようである。

水溜といい、出島では生活用水は市中から中島川を渡した竹樋を通して手に入れていた。その樋を巡らした跡と石製の溜枡が発掘調査により発見された。

こちらは乙名(おとな)部屋である。

出島管理の実務を担った長崎の有力町人から奉行が選任されたのが出島乙名である。貿易事務と商館員の監視が仕事である。

中に入ってみるとすぐに事務所という感じだ。

横手に行って東側からら西側を見た。

出島乙名の役割と生活が書かれた垂れ幕である。出島乙名は出島築造時に出資した25人の出島町人の中から1名選ばれていたが、1696年(元禄9年)から2人になった。

貿易の期間中はこの乙名部屋に滞在し、貿易や商館員の交代に関わる仕事をし。それ以外の磁器は建物修繕工事の責任者として働いた。

出島乙名関係の年表である。

土間であるが、料理をする部屋ではなさそうだ。

隣に移った。こちらは乙名の仕事場である。先ほども仕事場があった。
そうか、こちらが乙名で、先ほどはその部下が仕事をする場なのかなと思ったのである。
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何か知らないけれど木の上にもミニ出島が彫られている。
「運命の船」という彫刻である。木と思ったら、玄武岩である。
出島の過去と現在と未来を表現する3つの部分に分かれているとのことだ。
そして、振り返って、旧出島神学校の全体を見た。1878年(明治11年)に建てられ、1893年(明治26年)に増築されたのが現在の姿である。
戻って、西側に進んだ。目の前に、同じく、古い建物がある。
こちらは旧長崎内外クラブという。1899年(明治32年)にグラバー商会のトーマス・B・グラバーの息子である倉場富三郎等が発起人として、長崎に暮らす外国人と日本人の交流の場として設立された。
おお、トーマス・グラバーの倉場富三郎かと思った。
出島の中央通りを西に歩いた。
現在はレストランである。ランチタイムにはトルコライスもある。
出島に来る時間を間違えたというか、朝から来て、出島を回って、ランチをここで食べれば良かったな、それから、平和公園も訪れるというプランもあるなと思った。いやいや、そもそも、長崎2泊が短いのだと思った。
3泊だったらランチでトルコライスを食べることができたな。
まあ、今さら言っても仕方がないのだが。
それから、中央通りから南側の通りへと移動した。
カピタン部屋(オランダ商館長の宿舎)に入った際に見た裏通りを(https://gyo-nakamura.seesaa.net/article/508639937.html)、歩くことにした。右手に微かに見える白い蔵は組頭部屋・銅蔵である(https://gyo-nakamura.seesaa.net/article/509159502.html)。向こうに見える2階部分はカピタン部屋の涼所辺りだろう(https://gyo-nakamura.seesaa.net/article/508820903.html)。
振り返って、来た道を見た。左手の白い蔵が組頭部屋・銅蔵か、いや、最初の方に見た一四番蔵か(https://gyo-nakamura.seesaa.net/article/508520842.html)。
振り返ったまま、右手の方を見るとアンテナが見えた。長崎国際テレビである。読売テレビ系列である。
先を進むことにした。
井戸のようである。
水溜といい、出島では生活用水は市中から中島川を渡した竹樋を通して手に入れていた。その樋を巡らした跡と石製の溜枡が発掘調査により発見された。
こちらは乙名(おとな)部屋である。
出島管理の実務を担った長崎の有力町人から奉行が選任されたのが出島乙名である。貿易事務と商館員の監視が仕事である。
中に入ってみるとすぐに事務所という感じだ。
横手に行って東側からら西側を見た。
出島乙名の役割と生活が書かれた垂れ幕である。出島乙名は出島築造時に出資した25人の出島町人の中から1名選ばれていたが、1696年(元禄9年)から2人になった。
貿易の期間中はこの乙名部屋に滞在し、貿易や商館員の交代に関わる仕事をし。それ以外の磁器は建物修繕工事の責任者として働いた。
出島乙名関係の年表である。
土間であるが、料理をする部屋ではなさそうだ。
隣に移った。こちらは乙名の仕事場である。先ほども仕事場があった。
そうか、こちらが乙名で、先ほどはその部下が仕事をする場なのかなと思ったのである。
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