2024長崎・佐賀・福岡旅行記2日目その33~本当に15分の1だろうかと思ってしまう~
17時41分、出島の中にあるミニ出島を見に来ていた。15分の1のサイズだそうだ。う~ん、このミニ出島を15個並べたら水門まで行くのだろうか。150分の1ではないかと思った。
ちょうど、写真を撮った後ろに台があった。
台に乗って撮ってみた。先ほど見た一番蔵と二番蔵、三番蔵の前?後?中島川よりにひまわりがあったが、その辺りも昔は蔵だったようだ。確か、蔵は一七番まであったのだから、そうなるわな。
右手(西側)を見てみた。入口の後ろの建物に櫓が見えた。火事が起きていないかや起きたときのための櫓のようだ。
左手(東側)を見てみた。この場所というか庭園は昔からあったようだが、左端の方にも今は無い大きな建物が見えた。
さらに、左手(東側)に移動した。
ミニ出島の案内図があった。川原慶賀が描いたといわれる「長崎出島之図」をもとに1820年頃の出島を現した模型とのことだ。
今しがたひまわりがあった所の建物を蔵と思っていたが、これを見ると蔵は蔵でも左が脇荷イ之蔵(14番)で、右が元方呂之反物蔵(9番)とのことだ。
そして、左端の大きな建物は花園玉突場(47番)、すなわち、ビリヤード場で、最左端の小さな建物は番所(48番)とのことだ。
オマケに、カピタン(オランダ商館長)には出島内に別荘が与えられている(39番)ことにも驚いた。
左端(東側)から出島を見た。デジカメで撮ると西日が眩しくなってきた。
そこで、iPhone14で撮ってみた。通りも扇型になっている。真っ直ぐではなかったんだとこちらも少し驚いた。
このエッジから撮ってみたると出島が扇型であることがよく分かる。
でも、やっぱり、15分の1の縮尺とは信じられない。
戻ることにした。
扇型の中央通りを歩いた。左手に建物があったので入ることにした。
旧出島神学校である。1875年(明治8年)に建設された英国聖公会宣教協会の出島協会に隣接して1878年(明治11年)に英学校として建設され、1883年(明治16年)には出島聖公会神学校となった。
もっとも、1886年(明治19年)には閉鎖された。
顔出しパネルがあった。しかし、疲れていたので顔を出した写真を撮る余裕がなかった。パネリスト失格である。
部屋はこんな感じである。
賞状が展示されていた。出島地区が都市景観大賞「都市空間部門」国土交通大臣賞を受賞している。
奥?反対側から出た。
隣に移動した。
旧出島神学校である。わが国で最初のキリスト教プロテスタントの学校である。1893年(明治26年)に増築されたのが現在の姿である。
中はこのように展示されている。
すぐに出て来た。
右端から見た旧出島神学校である。
歴史のある建物だ。
少し離れて、全体を撮った。
当時の長崎ではこの建物よりも高い建物があったのだろうかと思ったのである。
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