2024長崎・佐賀・福岡旅行記2日目その31~なぜここに捨てていったのだろうか~
17時26分、出島にある旧石倉で磁器を見ていた。

こちらはガラス製品である。もちろん、出土品である。なぜ、持ち帰らなかったり、他所へ移動させなかったのだろうか。
それとも、ここに捨てていったのだろうか。

それはともかく、これらの出土品は、確かに出島で貿易は行われていた証なのだろう。
棹銅、オランダ東インド会社のVOC硬貨、コンプラ便の出土品が正にその証だ。

VOCマーク入りの銅貨だけではなく、ゼーランド州の紋章が入った銀貨なども出土されている。

同じく、出土されたコンプラ便は「SOYA」、「ZAKY}と書かれていたことから醤油や酒の瓶であることが分かった。

こちらはウシ、ブタ、ニワトリ、ヒツジなどの骨である。

「出島の日本人~遊女の足跡~」の説明書きである。遊女の装飾品、かんざしや指輪、紅皿、サイコロなども出土されている。

遊女は当時女性の出入りが許されなかった出島に唯一入ることのできた女性である。
となれば、商館長や商館員との間に子供が生まれることもあったようだ。

紅皿やサイコロが展示されていた。

「出島の日本人~日本人の残したもの」の説明書きである。分筆具や火入れ、煙管などがそうである。

出島には役人、阿蘭陀通詞(通訳)、雇われ大工、人夫、商人など多数の日本人男性が出入りして、出島で寝泊まりすることもあった。
そのため、色々な遺物が見つかっている。

「商館員の生活・食事」の説明書きである。牛・豚・魚の骨が出土しているし、酒の瓶も調理道具も出土している。その下の絵は、いかにも、フェルメールだ。

商館員たちは1日2回の食事だったことは既に知っている(https://gyo-nakamura.seesaa.net/article/508804720.html)。普段の食事はジャガイモを中心とした簡単なもので、宴会で牛や豚などが出たようだ。

下には酒瓶や鍋が展示されていた。

「商館員の生活・住まい」の説明書きである。様々な建材が出土されている。

大量の瓦やレンガも出土された。レンガは当時の長崎では作られていなかったため、パタヴィアから持ち込まれた。

「出島出土の様式銃」の説明書きである。カピタン部屋跡の発掘調査時に1挺の洋式銃と21発の弾丸が発見された。外国人を取り巻く環境の悪化により、護身用と考えられている。

こちらがその銃のようだ。錆が酷い。フランスやベルギーで作られているタイプのもので、おそらくベルギー製ではないかとのことだ。

「幕末の出島」の説明書きと写真である。写真を見ると岬に出た島であることが分かる。また、それほど傾斜地に家は建っておらず、今と違って栄えているようには見えない。

「居留地時代の出島商人」の説明書きと出島の地図である。お慶さん、こと大浦慶さんさんは油商の娘として生まれたが、日本茶の輸出を思い立ち、オランダ商人に投球が異なる3種類の嬉野茶を見本預け、3年後にイギリス商人オルトから大量の注文を受けたとのことだ。
オルトって昨日のグラバー園で見ることができなかったオルト住宅のオルトか(https://gyo-nakamura.seesaa.net/article/505975606.html)と思ったが、そもそも、出島には遊女などのごく一部の女性のみ出入りできないのに、どうして上手く商談ができたのか思ったのである。
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こちらはガラス製品である。もちろん、出土品である。なぜ、持ち帰らなかったり、他所へ移動させなかったのだろうか。
それとも、ここに捨てていったのだろうか。
それはともかく、これらの出土品は、確かに出島で貿易は行われていた証なのだろう。
棹銅、オランダ東インド会社のVOC硬貨、コンプラ便の出土品が正にその証だ。
VOCマーク入りの銅貨だけではなく、ゼーランド州の紋章が入った銀貨なども出土されている。
同じく、出土されたコンプラ便は「SOYA」、「ZAKY}と書かれていたことから醤油や酒の瓶であることが分かった。
こちらはウシ、ブタ、ニワトリ、ヒツジなどの骨である。
「出島の日本人~遊女の足跡~」の説明書きである。遊女の装飾品、かんざしや指輪、紅皿、サイコロなども出土されている。
遊女は当時女性の出入りが許されなかった出島に唯一入ることのできた女性である。
となれば、商館長や商館員との間に子供が生まれることもあったようだ。
紅皿やサイコロが展示されていた。
「出島の日本人~日本人の残したもの」の説明書きである。分筆具や火入れ、煙管などがそうである。
出島には役人、阿蘭陀通詞(通訳)、雇われ大工、人夫、商人など多数の日本人男性が出入りして、出島で寝泊まりすることもあった。
そのため、色々な遺物が見つかっている。
「商館員の生活・食事」の説明書きである。牛・豚・魚の骨が出土しているし、酒の瓶も調理道具も出土している。その下の絵は、いかにも、フェルメールだ。
商館員たちは1日2回の食事だったことは既に知っている(https://gyo-nakamura.seesaa.net/article/508804720.html)。普段の食事はジャガイモを中心とした簡単なもので、宴会で牛や豚などが出たようだ。
下には酒瓶や鍋が展示されていた。
「商館員の生活・住まい」の説明書きである。様々な建材が出土されている。
大量の瓦やレンガも出土された。レンガは当時の長崎では作られていなかったため、パタヴィアから持ち込まれた。
「出島出土の様式銃」の説明書きである。カピタン部屋跡の発掘調査時に1挺の洋式銃と21発の弾丸が発見された。外国人を取り巻く環境の悪化により、護身用と考えられている。
こちらがその銃のようだ。錆が酷い。フランスやベルギーで作られているタイプのもので、おそらくベルギー製ではないかとのことだ。
「幕末の出島」の説明書きと写真である。写真を見ると岬に出た島であることが分かる。また、それほど傾斜地に家は建っておらず、今と違って栄えているようには見えない。
「居留地時代の出島商人」の説明書きと出島の地図である。お慶さん、こと大浦慶さんさんは油商の娘として生まれたが、日本茶の輸出を思い立ち、オランダ商人に投球が異なる3種類の嬉野茶を見本預け、3年後にイギリス商人オルトから大量の注文を受けたとのことだ。
オルトって昨日のグラバー園で見ることができなかったオルト住宅のオルトか(https://gyo-nakamura.seesaa.net/article/505975606.html)と思ったが、そもそも、出島には遊女などのごく一部の女性のみ出入りできないのに、どうして上手く商談ができたのか思ったのである。
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