2024長崎・佐賀・福岡旅行記2日目その30~こんなん作ってくださ~いとでも言ったのだろうか~

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17時24分、組頭部屋・銅蔵を出て、旧石倉の中に入った。2階もあるようだ。
この旧石倉は幕末の商社の石蔵で、その商社は坂本龍馬ら海援隊とも取引をしてとのことだ。
IMG_1226.JPGいたそうだ。
現在では出島の発掘調査によって出土した考古資料の展示がなされている。
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その発掘調査では、様々な貿易品や商館員の日々の生活で用いた道具が出土されている。
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「国指定史跡出島和蘭商館跡」の説明書きである。1859年(安政6年)、開国後、出島の周囲は次第に埋め立てられ、さらに中島川の変流工事により北側が削り取られ、1904年(明治37年)には完全に内陸化し、特徴的な扇型の姿を失った。
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「発掘調査過程」の説明書きである。1922年(大正11年)に出島和蘭商館跡は国の史跡に指定された。1996年(平成8年)から本格的な発掘調査がなされた。
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「建物遺構と生活遺構」の説明書きである。発掘調査により柱を立てる基礎石や外壁を支える礎石石から建物の規模や配置などが分かった。
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手前から見ていくことにした。陶磁器などが展示されていた。
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一番手前に柿右衛門様式の磁器が展示されていた。備前・有田では1610年頃から日本初の磁器の焼成が始まった。
そして、1647年(正保4年)頃、初代酒井田柿右衛門が磁器に赤絵(色絵)を施すことに成功したと考えられ、柿右衛門様式とよばれる高級な輸出向けの色絵磁器が誕生したとのことだ。
明日、有田に行って柿右衛門の所に行く予定だから、この説明や作品を見て胸が躍った。
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こちらは金襴手様式の作品である。
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1690年代頃から金襴手様式といわれる新しい装飾様式を持つ肥前磁器が作られ、海外向けに輸出された。染付(釉下)による藍色と釉上赤や金などの色絵具で文様を描いた加飾である。
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こちらは芙蓉手様式の作品である。
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芙蓉手とは、皿の淵の部分を八つに割り、その中にを吉祥を意味する文様を描く意匠のことである。中国の景徳鎮窯で作られた絵柄を手本に有田をはじめ世界各地でその写しが作られたそうだ。
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VOCの社章である。オランダ東インド会社は1650年から肥前磁器の輸出を始めた。また、社章であるVOCの組み合わせ文字を中央に絵付けした磁器も注文生産されるようになった。
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これらの磁器がそうだ。お皿の真ん中にはVの間にOとCの字が入っている。
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「商館員の生活と肥前磁器」の説明書きである。それにしいても、これだけ割れた磁器があるということは出て行くときには捨てていったのだろうか。
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肥前磁器の輸出が始まると商館員は中国磁器の見本を有田の磁器生産者に示して、注文していたのだ。
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そのことを親しい友人から教えて貰い、「『こんなん作ってくださ~い』とでも言ったのかな」と親しい友人にカタコトで言うと「こんなん、って大阪弁やん」とツッコまれた。
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それはともかく、その結果、肥前磁器がヨーロッパの生活に浸透していったそうだ。
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とにかく、割れてはいるものの磁器はたくさん出土されたようだ。
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江戸時代後期に作られた色絵磁器は。17~18世紀前半のそれとは異なった意匠とのこと。
そりゃ、時代による流行があるだろうなと思ったのである。

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この記事へのコメント

2025年01月22日 10:53
こんにちは。

美人画の器は、印刷の浮世絵と違ってひとつひとつ描いたのでしょうから、
結構な手間&コストが掛かってそうですね。
今の価格で、どのくらいの金額になるのやら。。
注文の際は、もっとオカネモチの口調だった事でしょう。
「このように作ってたもれ」ですよ。きっと。
中村裕司
2025年01月23日 07:56
有田に行って、柿右衛門窯に行くのが楽しみです。

日本人が変な日本語を教えていなければ良いのですが。
昔、プーケットに行った際、山本山と言われましたよ。

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