2024長崎・佐賀・福岡旅行記2日目その28~カステラはスペインからポルトガル、そして日本へ~
17時3分、出島の二番蔵から三番蔵へと移動した。

ここは砂糖が置かれた蔵で、砂糖の展示を見ていた。グラニュー糖、三温糖、上白糖、氷砂糖は知っているが、中双糖は知らない。

「長崎の砂糖文化」の説明書きである。ポルトガルの貿易港だから、いわゆる、南蛮菓子も入ってくる。カステラはもちろん、こんぺいとう、ボウロ、カルメラ、ビスケットなどが代表である。
砂糖は、シュガーロードを通って小倉、それから大坂に運ばれて(多分、船)、問屋を通じて全国各地に販売された。
これとは別に、貰砂糖やこぼれもの砂糖、贈砂糖というのが長崎にあったそうだ。

「現代まで伝わる菓子文化」の説明書きである。そのカステラも元々はポルトガル発祥ではなく、スペインにあったカステリア王国のポロ・デ・カステリアと呼ばれたお菓子がポルトガルに伝わり、改良を重ねられて日本に入ってきたそうだ。

こちらは砂糖を使ったお菓子である。
と思ったら、大村寿司というのもあった。まあ、お寿司も寿司飯に砂糖をある程度使うからね。

先ほど見た長崎街道(シュガーロード)は砂糖文化を広めた街道として日本遺産に認められている。

建物の端にも砂糖を入れた麻袋が積まれていた。
もちろん、中身が砂糖なんて思うほど私はお人好しではない。発泡スチロールでも入れているのかなと思った。
三番蔵を出て来た。

出てきて、二番蔵、一番蔵の方を見た。
振り返って、順路通り、進んだ。

つぎは拝礼筆者蘭人部屋に向かうようだ。
拝礼筆者とは帳簿などの筆記を行うオランダ人書記の長が住んでいた建物である。現在は出島から入って来た蘭学を紹介している資料館である。

建物の入口に来て、中に入った。

左手を見るとシーボルトに関する説明書きがあった。シーボルト(1796年~1866年)もオランダ商館医として出島に来ている。

発掘調査で水銀が出土したようだ。

水銀は主に鍍金(メッキ)に使用されていた。また、温度計や体温計の器具内に入っていたり、梅毒などの治療に使用されていたとのことだ。

これは土葬された仔牛の遺体である。

食用ではなく牛痘苗の作成に使われた可能性があるとされている。1849年(嘉永2年)には牛痘法による種痘に成功しているからだ。

手前は聴胸器である。

説明書きの下に僅かだが遺構が見える。これはアワカワ遺構といい、樽を半分土中に埋めた跡と思われることからオランダ商館員用の作業場があったと推測されている。

「蘭学の応用」の説明書きである。蘭学の対象とされた学術・技術は、語学、医学・生物学・化学・物理学、天文学、世界地理、西洋史、兵学、測量術、航海術など幅広い分野に及ぶ。
その中で、学術用具や精密機械など西洋で製作。使用されたものも日本人の職人たちによってその仕組みについて研究された日本でも政策が試みられた。

こちらはエレキテルである。

エレキテルは医療のほか、見世物にも使用された。
そういえば、エレキテル連合というお笑い芸人も観なくなったなあと思ったのである。
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ここは砂糖が置かれた蔵で、砂糖の展示を見ていた。グラニュー糖、三温糖、上白糖、氷砂糖は知っているが、中双糖は知らない。
「長崎の砂糖文化」の説明書きである。ポルトガルの貿易港だから、いわゆる、南蛮菓子も入ってくる。カステラはもちろん、こんぺいとう、ボウロ、カルメラ、ビスケットなどが代表である。
砂糖は、シュガーロードを通って小倉、それから大坂に運ばれて(多分、船)、問屋を通じて全国各地に販売された。
これとは別に、貰砂糖やこぼれもの砂糖、贈砂糖というのが長崎にあったそうだ。
「現代まで伝わる菓子文化」の説明書きである。そのカステラも元々はポルトガル発祥ではなく、スペインにあったカステリア王国のポロ・デ・カステリアと呼ばれたお菓子がポルトガルに伝わり、改良を重ねられて日本に入ってきたそうだ。
こちらは砂糖を使ったお菓子である。
と思ったら、大村寿司というのもあった。まあ、お寿司も寿司飯に砂糖をある程度使うからね。
先ほど見た長崎街道(シュガーロード)は砂糖文化を広めた街道として日本遺産に認められている。
建物の端にも砂糖を入れた麻袋が積まれていた。
もちろん、中身が砂糖なんて思うほど私はお人好しではない。発泡スチロールでも入れているのかなと思った。
三番蔵を出て来た。
出てきて、二番蔵、一番蔵の方を見た。
振り返って、順路通り、進んだ。
つぎは拝礼筆者蘭人部屋に向かうようだ。
拝礼筆者とは帳簿などの筆記を行うオランダ人書記の長が住んでいた建物である。現在は出島から入って来た蘭学を紹介している資料館である。
建物の入口に来て、中に入った。
左手を見るとシーボルトに関する説明書きがあった。シーボルト(1796年~1866年)もオランダ商館医として出島に来ている。
発掘調査で水銀が出土したようだ。
水銀は主に鍍金(メッキ)に使用されていた。また、温度計や体温計の器具内に入っていたり、梅毒などの治療に使用されていたとのことだ。
これは土葬された仔牛の遺体である。
食用ではなく牛痘苗の作成に使われた可能性があるとされている。1849年(嘉永2年)には牛痘法による種痘に成功しているからだ。
手前は聴胸器である。
説明書きの下に僅かだが遺構が見える。これはアワカワ遺構といい、樽を半分土中に埋めた跡と思われることからオランダ商館員用の作業場があったと推測されている。
「蘭学の応用」の説明書きである。蘭学の対象とされた学術・技術は、語学、医学・生物学・化学・物理学、天文学、世界地理、西洋史、兵学、測量術、航海術など幅広い分野に及ぶ。
その中で、学術用具や精密機械など西洋で製作。使用されたものも日本人の職人たちによってその仕組みについて研究された日本でも政策が試みられた。
こちらはエレキテルである。
エレキテルは医療のほか、見世物にも使用された。
そういえば、エレキテル連合というお笑い芸人も観なくなったなあと思ったのである。
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この記事へのコメント
エレキテル連合は、メンバーの一人が子宮がんで入院し、
活動休止になった、、までは聞きました。
大変ですよね。
急に見なくなったんで、干されたのか何かあったのかなと思ったんです。