2024長崎・佐賀・福岡旅行記2日目その25~復元するのも簡単ではない~
16時48分、出島の南側にある建物を概ね見学して、今度は北側の建物群を見学することにした。
一番北西側にあるこの建物は一番船船頭部屋という。
オランダ船が港に停泊していたとき、2階の西側に船長の一人が滞在し、東側は商館事務員の住居として使われた。基本的な作りは当時の長崎町人の住まいとさほど変わりがないそうだ。
また、1階は倉庫として使用された。
中に入ってみた。確かに、倉庫になっていた。確かにと言っても復元されたものなので当たり前だが。
出島の建物の多くは1階が倉庫になっていたのだが、単なる倉庫としてだけではなく、天秤や分銅も置かれていて、銅や砂糖の計量に使われていた。
当時を現わす絵がかかっていた。
右手に見えるのは量りである。
2階に上がってみた。
こちらは1番船船頭の部屋である。家具は和風であるが、カップやポットは洋風である。鳥かごもあった。鳥に向かってオランダ語で話しかけていたのだろうか。
左手には天蓋付きベッドが置かれていた。
机とテーブルもある。船長の部屋だから、毎日日誌を書くのに使っていたのだろうか。
いずれにして、船長なので広い部屋が与えられている。
こちらはオランダ商館員の部屋である。こちらも天蓋付きのベッドが置かれている。
同じく、商館員の部屋である。
家具はパタヴィア(現在のインドネシアのジャカルタ)から持ち込むか長崎の職人に作らせていたとのことだ。
1等書記が出島で亡くなり遺品が競売にかけられたことにより持ち物リストが残ったおかげで再現できたようだ。
それにしても、遠く離れた国で死ぬのは嫌だな。
死なないにしても、出島内にしかおれないのだから、息が詰まったりしないのだろうか。
さっさと取引を終えて自国に帰りたいと思った。
もっとも、そんな考えでは儲けることができないのだろう。
こちらは1階畳の部屋である。
唐紙は「小花柄七宝」の柄を採用しているとのこと。
1階は倉庫として使われることが多かったそうだが、1階にも畳の部屋があった建物もあるようだ。
一番船船頭部屋を出て来た。
隣の一番蔵に入ることにした。
絵図によると砂糖蔵と記され、傷んだサトウキビを収めためたという記録もある。蔵というか倉庫の名前についてオランダ人は花の名前で呼び、この蔵はバラ蔵と呼んでいたそうだ。
ちなみに、蔵は一番蔵から十七番蔵まであったとのこと。
一番蔵に入ると中は資料館になっていた。ここでは復元工事の家庭などが紹介されている。
オランダ商館長プロムホフは着任後に大模型を作らせ、本国に送った。これがまた人気を集めたとのことだ。
一番蔵・二番蔵の復元についても様々な資料を比較検討してなされたそうだ。
復元するということは難しいものだなあと思ったのである。
ブログランキングに参加しています。
Facebookのいいねを押すよりも
こちらをワンクリックしてくだされば励みになります。
↓

にほんブログ村
この記事へのコメント
建物類も、多くは外観図だけからの復元なのでしょうかね。
それでも類似した建物からの推測も出来ましょう。
吉野ヶ里遺跡のように、柱の穴だけからの復元よりはマシかもです。
おっと、それはこの後に出てくるシーンでしたね。。
その割には資料が少なかった感じもしましたが。
吉野ヶ里遺跡はまだまだ先になりそうです😅