2024長崎・佐賀・福岡旅行記2日目その22~バトミントンというよりも大きいな羽子板?~
16時22分、出島にあるカピタン部屋を見学していた。
カピタンとはオランダ商館長を指すので、この建物はオランダ商館長の屋敷跡のことである。
もっとも、1階は出島にまつわる資料などが展示されていた。

こちらは船の模型である。当時はこのような船でオランダから日本にやってきたのだ。

そのオランダ船の渡航ルートが示されていた。
もちろん、スエズ運河なんかは無かったから、喜望峰経由である。
黒い点が連合オランダ東インド会社の商館があった場所である。インドはもちろん、インドネシアも多い。

テーブルの方を見ると昔のバトミントンのラケットが展示されていた。1787年刊行の「紅毛雑詰」の中でバトミントンが紹介されているので、少なくともその時にはオランダから入ってきたのだ。
バトミントンというよりも大きいな羽子板のようにも見えた。

「禁教令と出島」である。江戸幕府は長崎支柱に住んでいたポルトガル人を1か所に集めキリスト教の広がりを防ぐために出島を築造することにした。
こうして1636年(寛永13年)に出島は完成した。
そして、出島の賃料をポルトガル、その後、オランダから取っていた。
オランダの時には今の貨幣価値でいうなら年間1億円の賃料を取っていたそうだ。

1641年には出島にオランダ商館が移転された。

「オランダ商館「出島」」である。幕府の意向や出島町人たちの要望などによって、1639年(寛永16年)にポルトガル人が追放された。その後、空き地になっていた出島に連合オランダ東インド会社の商館が1648年(寛永18年)に平戸から移ってきた。

1662年には出島内に伊万里焼の店が開店したそうだ。

出島はこんな感じである。今いてる場所は居宅と書かれた建物の少し下の部分である。

「出島の貿易の賑わい」である。初期の頃の我が国の輸出品は金や銀で、その後に銅、それから、陶磁器や漆製品などが輸出された。輸入品は生糸や砂糖、香辛料などである。

1799年には連合オランダ東インド会社が解散している。

この皿は何に使うものかなと出題されている。正解は一番船船頭部屋2階の映像で分かるそうだ。
それまで覚えている自信はない。

「蘭学の発達と商館医」である。オランダ商館医として出島にやってきたケッペルやシーボルトらが蘭学をもたらし、日本の近代化に大きく貢献した。蘭学とは、医学をはじめ、植物学、化学、物理学、天文学語学、兵学などである。

そのシーボルトは1823年に来日した。

船の模型が展示されていた。

「商館員と阿蘭陀通詞」である。出島ではオランダ船が港に泊まっている6月から11月の間に貿易が行われていたそうだ。その中で通訳(通詞)が重要な役割を担っていた。

1803年にドゥーフ商館長が就任した。歴代最長の商館長である。

出島の模型である。

「貿易の衰退」である。江戸幕府による規制とオランダ本国の政情不安定、東インド会社社員の私貿易の増大により会社解散などのよって貿易が衰退していった。

1810年にオランダがフランスに併合されたのが大きかったのだろう、

「19世紀初頭の出島」である。貿易は衰退したが、出島では蘭学を中心とする交流は盛んにおこなわれていた。
現在の出島は19世紀初頭の建物と生活を再現しているとのことだ。

1859年にオランダ商館が廃止された。
これが時代の流れなのかなと思ったのである。
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カピタンとはオランダ商館長を指すので、この建物はオランダ商館長の屋敷跡のことである。
もっとも、1階は出島にまつわる資料などが展示されていた。
こちらは船の模型である。当時はこのような船でオランダから日本にやってきたのだ。
そのオランダ船の渡航ルートが示されていた。
もちろん、スエズ運河なんかは無かったから、喜望峰経由である。
黒い点が連合オランダ東インド会社の商館があった場所である。インドはもちろん、インドネシアも多い。
テーブルの方を見ると昔のバトミントンのラケットが展示されていた。1787年刊行の「紅毛雑詰」の中でバトミントンが紹介されているので、少なくともその時にはオランダから入ってきたのだ。
バトミントンというよりも大きいな羽子板のようにも見えた。
「禁教令と出島」である。江戸幕府は長崎支柱に住んでいたポルトガル人を1か所に集めキリスト教の広がりを防ぐために出島を築造することにした。
こうして1636年(寛永13年)に出島は完成した。
そして、出島の賃料をポルトガル、その後、オランダから取っていた。
オランダの時には今の貨幣価値でいうなら年間1億円の賃料を取っていたそうだ。
1641年には出島にオランダ商館が移転された。
「オランダ商館「出島」」である。幕府の意向や出島町人たちの要望などによって、1639年(寛永16年)にポルトガル人が追放された。その後、空き地になっていた出島に連合オランダ東インド会社の商館が1648年(寛永18年)に平戸から移ってきた。
1662年には出島内に伊万里焼の店が開店したそうだ。
出島はこんな感じである。今いてる場所は居宅と書かれた建物の少し下の部分である。
「出島の貿易の賑わい」である。初期の頃の我が国の輸出品は金や銀で、その後に銅、それから、陶磁器や漆製品などが輸出された。輸入品は生糸や砂糖、香辛料などである。
1799年には連合オランダ東インド会社が解散している。
この皿は何に使うものかなと出題されている。正解は一番船船頭部屋2階の映像で分かるそうだ。
それまで覚えている自信はない。
「蘭学の発達と商館医」である。オランダ商館医として出島にやってきたケッペルやシーボルトらが蘭学をもたらし、日本の近代化に大きく貢献した。蘭学とは、医学をはじめ、植物学、化学、物理学、天文学語学、兵学などである。
そのシーボルトは1823年に来日した。
船の模型が展示されていた。
「商館員と阿蘭陀通詞」である。出島ではオランダ船が港に泊まっている6月から11月の間に貿易が行われていたそうだ。その中で通訳(通詞)が重要な役割を担っていた。
1803年にドゥーフ商館長が就任した。歴代最長の商館長である。
出島の模型である。
「貿易の衰退」である。江戸幕府による規制とオランダ本国の政情不安定、東インド会社社員の私貿易の増大により会社解散などのよって貿易が衰退していった。
1810年にオランダがフランスに併合されたのが大きかったのだろう、
「19世紀初頭の出島」である。貿易は衰退したが、出島では蘭学を中心とする交流は盛んにおこなわれていた。
現在の出島は19世紀初頭の建物と生活を再現しているとのことだ。
1859年にオランダ商館が廃止された。
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この記事へのコメント
出島の終焉は、あまり気にした事も無かったのですが、
なるほど、、とても勉強になりました。
要は、もう区切られた空間である必然性が無くなり、
それで埋め立てられちゃったのでしょうね。
でも、、復元を含めてアレコレ残されているのがありがたい事ですよ。
でも、そんなに昔ではないから、遺構もええ状態で見つかり、上手く復元できたのでしょうね。