2024長崎・佐賀・福岡旅行記2日目その21~5隻の内、残りの4隻はどうなったのだろうか~
16時10分、カピタン部屋という建物の中にいた。カピタンとはオランダ商館長のことをいう。だから、ここはオランダ商館長の屋敷跡ということになる。

入口近くに展示されていた模型はビリヤードを楽しんでいる姿である。階段があるので2階で興じていたようだ。
給仕の男性はインドネシア辺りの人だろうか。

そのビリヤード台も展示されていた。今と違ってコーナーに穴はない。

船の模型も展示されていた。
建物の奥が開いていたので、外に出た。

外にも通りを挟んで建物があった。
後で行ってみよう。
取り敢えず、引き返すことにした。

再び、ビリヤード台が見えた。

左手(西側)にも展示コーナーがあるようなので移動した。

商館長や商館員などカピタン部屋にまつわる人々の紹介と出島での生活で怒った事件やエピソードの紹介があるようだ。
中に入った。

こちらは埋め樽の復元である。

床に半分埋められていてしっかりと固定されていたようだが、中に何が入っていたかわかっていないとのこと。

体験展示室の案内があったが、既に時刻は過ぎていた。

左手には黒い船の模型が展示されていた。

壁側には年表と出来事が書かれていた。

「西洋貿易のはじまり」の説明書きである。1543年に種子島に漂着した1隻の唐船(中国船)に2人のポルトガル人が乗っていて、これがきっかけとなって貿易が始まり、我が国と西洋との文化の交流が始まった。コンペントウも入ってきたし、脂で揚げる調理法などももたらされた。
また、キリスト教も入ってきたのだ。

もっとも、フランシスコ・ザビエルは1549年の来日である。

「貿易港長崎の誕生」である。1571年にポルトガル船が入港し、教会の建設も始まった。
当時の長崎は人口の少ない村だったそうだ。

1550年、平戸にポルトガル船が入港し、1570年に長崎港開港を決定、翌年にポルトガル船が入港である。

「朱印船貿易と貿易商」である。江戸幕府から朱印状を貰って貿易を行う船を朱印船という。これらの船は台湾や交趾(現ベトナム)、呂宋(現フィリピン)などの東南アジアの各地域に派遣され。これらの地域に日本町や日本人居留地が造られた。

1592年に朱印船貿易が始まり、1602年には連合オランダ東インド会社が設立された。

「オランダ船の来航」である。1600年4月に豊後の佐志生(現大分県臼杵市)に1隻のオランダ船のリーフデ号が漂着した。
1598年にロッテルダムからマゼラン海峡を経て東洋に向かった5隻の船の1隻で、この船だけが日本に到着したとのことだ。
ここからオランダとの貿易が始まった。
残りの4隻はどうなったのだろうか。
と思ったら、下に航路図が出ていた。チリ沖に3隻到着したようだ。
そして、1隻が豊後の佐志生(現大分県臼杵市)に漂着した。
となると、チリに着くまでに2隻が、日本に着くまでに2隻が・・・・。

1614年には全国にキリスト教禁教令が出された。

「オランダのアジア進出」である。連合オランダ東インド会社はアフリカ、東南アジア、台湾、日本など各地に商館を設け、中継貿易を行った。
日本では長崎のオランダ商館が貿易拠点の一つだった。

1635年に鎖国が始まり、1636年に出島が完成したのである。
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2025大宮えびす祭りその2~今年も境内社を回るために小銭入れは必修~
をアップします。
是非!ご拝読ください。
入口近くに展示されていた模型はビリヤードを楽しんでいる姿である。階段があるので2階で興じていたようだ。
給仕の男性はインドネシア辺りの人だろうか。
そのビリヤード台も展示されていた。今と違ってコーナーに穴はない。
船の模型も展示されていた。
建物の奥が開いていたので、外に出た。
外にも通りを挟んで建物があった。
後で行ってみよう。
取り敢えず、引き返すことにした。
再び、ビリヤード台が見えた。
左手(西側)にも展示コーナーがあるようなので移動した。
商館長や商館員などカピタン部屋にまつわる人々の紹介と出島での生活で怒った事件やエピソードの紹介があるようだ。
中に入った。
こちらは埋め樽の復元である。
床に半分埋められていてしっかりと固定されていたようだが、中に何が入っていたかわかっていないとのこと。
体験展示室の案内があったが、既に時刻は過ぎていた。
左手には黒い船の模型が展示されていた。
壁側には年表と出来事が書かれていた。
「西洋貿易のはじまり」の説明書きである。1543年に種子島に漂着した1隻の唐船(中国船)に2人のポルトガル人が乗っていて、これがきっかけとなって貿易が始まり、我が国と西洋との文化の交流が始まった。コンペントウも入ってきたし、脂で揚げる調理法などももたらされた。
また、キリスト教も入ってきたのだ。
もっとも、フランシスコ・ザビエルは1549年の来日である。
「貿易港長崎の誕生」である。1571年にポルトガル船が入港し、教会の建設も始まった。
当時の長崎は人口の少ない村だったそうだ。
1550年、平戸にポルトガル船が入港し、1570年に長崎港開港を決定、翌年にポルトガル船が入港である。
「朱印船貿易と貿易商」である。江戸幕府から朱印状を貰って貿易を行う船を朱印船という。これらの船は台湾や交趾(現ベトナム)、呂宋(現フィリピン)などの東南アジアの各地域に派遣され。これらの地域に日本町や日本人居留地が造られた。
1592年に朱印船貿易が始まり、1602年には連合オランダ東インド会社が設立された。
「オランダ船の来航」である。1600年4月に豊後の佐志生(現大分県臼杵市)に1隻のオランダ船のリーフデ号が漂着した。
1598年にロッテルダムからマゼラン海峡を経て東洋に向かった5隻の船の1隻で、この船だけが日本に到着したとのことだ。
ここからオランダとの貿易が始まった。
残りの4隻はどうなったのだろうか。
と思ったら、下に航路図が出ていた。チリ沖に3隻到着したようだ。
そして、1隻が豊後の佐志生(現大分県臼杵市)に漂着した。
となると、チリに着くまでに2隻が、日本に着くまでに2隻が・・・・。
1614年には全国にキリスト教禁教令が出された。
「オランダのアジア進出」である。連合オランダ東インド会社はアフリカ、東南アジア、台湾、日本など各地に商館を設け、中継貿易を行った。
日本では長崎のオランダ商館が貿易拠点の一つだった。
1635年に鎖国が始まり、1636年に出島が完成したのである。
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この記事へのコメント
総合的な是非はともかく、、、
日本が植民地化されなかった事に関して言えば、
出島への封じ込めとキリスト教弾圧が有効だったのでしょうね。
1つ何かが違っていれば、、、、果たして、何がどうなっていたのやら。。
オランダ船の大砲で攻撃されていたら・・・。
でも、日本も海戦は得意な方だから、短期的には勝つのかな。