2024長崎・佐賀・福岡旅行記2日目その18~やっぱり出入りを監視する建物は必須~
16時、出島に入場した。暑いので日傘を差している人も多い。
目の前には昔の建物が目の前に現れた。
残念ながら、中には入れない。奇麗な襖である。
こちらは乙名詰所という。
出島の関係者が出入りする表門の正面にあたり、通行する人々の監視を行っていた建物である。
そういえば、2月の金沢旅行で、大きな武家屋敷に、屋敷に出入りする人を監視する部屋があったなと思い出した(https://gyo-nakamura.seesaa.net/article/503533518.html)。
もっとも、こちらの建物は移築ではなく、復元されたものである。
とはいえ、木版摺りのからかみと渋紙摺りに更紗という2種類の手法できっちりと作られている。だから、襖も奇麗に見えるのだ。
復元するにしても手を抜くことはできない。
桶も展示されている、火事になったときはこの程度では全然足りないのであろうが。
斜め前の建物である。
南西(左手前)の方の建物から見て回ることにした。
14番蔵に入った。
いきなり、地層が現れた。
この14番蔵は出島の土台の構造や護岸石垣の特徴、旧出島橋について紹介する蔵のようだ。
元々、出島は長崎港の入口にあたる岬の先端の一部を埋め立てて造られたものである。
明治時代には周囲を埋め立てられ、陸続きとなり、島の姿を失ったとのことだ。
出島の最初の住人はポルトガル人で、その後は平戸からオランダ人が移り住むようになった。
こちらは石垣を造るときに使用された木の杭である。
護岸石垣基礎構造のイメージ図である。根石の上に積石、根を守る捨石、石垣を安定させるための栗石と石にも色々と役割があるようだ。
出島大火後の遺構である。
こんな感じで展示されている。これだけ低いとガラスの上に乗っても怖くはない。
明石海峡大橋のときは怖かったなと思い出した(https://gyo-nakamura.seesaa.net/article/201711article_11.html)。
1798年(寛政10年)、出島では西側半分を焼失する大火があったそうだ。
護岸石垣の修復という説明書きである。
発掘調査で掘り出された石垣は修復を行う上でい石積みの特徴、石の種類、大きさ、加工した痕など様々な調査が行われている。
修復工事は当時の工法で復元するとのことだ。修復前と修復後の写真を見た。小さめの石でもこうして気を使って積み上げなければならない。
そう思うとエジプトのピラミッドの石積みがどれだけ凄いのかがよく分かる気がする。
こちらは旧出島橋である。
思いの外、橋が短い。橋は石でできているように見える。
島内として唯一の出入口として、その役割を担っていた。築造当初は木製の橋で、1678年(延宝6年)に石橋に改築されたとのことだ。
その後、明治時代には中島川の変流工事によって石橋は取り壊され、出島を取り巻く環境は大きく変化したとのことで、逆に衰退して至ったのかなと思ったのである。
ブログランキングに参加しています。
Facebookのいいねを押すよりも
こちらをワンクリックしてくだされば励みになります。
↓

にほんブログ村
この記事へのコメント