2024長野・松本旅行記3日目その16~国宝開智学校は耐震補強工事で休館中~
14時20分、美味しいおそばと天ぷらを食べて信州城下そばと天ぷらやまとうさんを出て来た。

地図を見ながら右手(西側)を歩き、右手(北側)に曲がった。

そこから、真っ直ぐに歩いた。左手には幼稚園があった。聖十字幼稚園という。

小さな川があった。

地図を見るとこの川沿いに歩くと旧開智学校に着くようだった。

川に沿って歩いた。

親しい友人が「シロサギがいているで」と言ったのでレンズを向けると飛び立とうとしていた。

道が行き止まったので右手〈東側〉に歩いた。

旧開智学校の矢印が左手(北側)に出ていたので左に曲がることにした。

前にあるグランドは開智小学校のグランドのようだ。
真っ直ぐ進んだ。ちょうど、前をやまとうさんで私たちの近くでおそばを食べていた親子が歩いていた。
ああ、あの方たちもおそばを食べてから旧開智学校に行くんだなと思いながら、その後ろを歩いていた。
右手に曲がり、細道を歩いた。

旧開智学校の正面にやってきた。事前に知っていたとはいえ工事中で、足場が組まれていた。
そのため、中に入ることができなかった。
また、旧開智学校の入口の上には天使と龍の彫刻があり、日本らしいデザインと西洋らしいデザインが合わさっているとのことだが、ネットでよく見えなかった。

iPhone14でも撮ってみた。しかし、天使と龍の彫刻は見えなかった。

旧開智学校の前は松本市立開智小学校である。

再度、旧開智学校を見た。
この旧開智学校は1873年(明治6年)、5月6日、廃寺になった全久院の建物を仮校舎として開校された。その後には昨日通った()。
新校舎は全久院跡地に、1876年(明治9年)4月に竣工し、1963年(昭和38年)3月までの約90年間使用された。
その間、1961年(昭和36年)に重要文化財に指定された。
その後、解体され、7か月ほど掛かって、1964年(昭和39年)8月にこの場所に移築された。
そして、2019年(令和元年)に国宝に指定されたのである。

せっかくなので、国宝をバックに記念写真を撮って貰った。顔が、で・で・でかい。

近くに、こんなのがあった。ホントQRコードは便利だ。

戻ることにした。ここで親しい友人に呼び止められて、塔の先っぽを見た。東西南北と書かれていた。
また、やや大きめの道に出た。

休館の看板が出ていた。2021年(令和3年)6月1日から耐震工事のための休館だ。それにしても長いな

向うに見えるのは旧司祭館である。
右手に曲がって国宝開智学校を見ようとした。
しかし、壁に阻まれ何も見えなかった。
その代わりか、開智学校の説明書きの看板が立てられていた。

江戸時代の学校には、藩校、寺子屋、私塾があったが、近代になると筑摩県学が設置され、学校教育の普及が一気に進んだ。

開智学校の開校時、既に児童は1000人を超え、県下一の大規模な学校として盛大な開校式が催されたとのことだ。
長野県では長野高校と松本深志高校が進学実績を争っているということを大昔に聞いたことがある。
こういう歴史があるからなんだなと思ったのである。
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小さな川があった。

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川に沿って歩いた。
親しい友人が「シロサギがいているで」と言ったのでレンズを向けると飛び立とうとしていた。
道が行き止まったので右手〈東側〉に歩いた。
旧開智学校の矢印が左手(北側)に出ていたので左に曲がることにした。
前にあるグランドは開智小学校のグランドのようだ。
真っ直ぐ進んだ。ちょうど、前をやまとうさんで私たちの近くでおそばを食べていた親子が歩いていた。
ああ、あの方たちもおそばを食べてから旧開智学校に行くんだなと思いながら、その後ろを歩いていた。
右手に曲がり、細道を歩いた。
旧開智学校の正面にやってきた。事前に知っていたとはいえ工事中で、足場が組まれていた。
そのため、中に入ることができなかった。
また、旧開智学校の入口の上には天使と龍の彫刻があり、日本らしいデザインと西洋らしいデザインが合わさっているとのことだが、ネットでよく見えなかった。

iPhone14でも撮ってみた。しかし、天使と龍の彫刻は見えなかった。
旧開智学校の前は松本市立開智小学校である。
再度、旧開智学校を見た。
この旧開智学校は1873年(明治6年)、5月6日、廃寺になった全久院の建物を仮校舎として開校された。その後には昨日通った()。
新校舎は全久院跡地に、1876年(明治9年)4月に竣工し、1963年(昭和38年)3月までの約90年間使用された。
その間、1961年(昭和36年)に重要文化財に指定された。
その後、解体され、7か月ほど掛かって、1964年(昭和39年)8月にこの場所に移築された。
そして、2019年(令和元年)に国宝に指定されたのである。

せっかくなので、国宝をバックに記念写真を撮って貰った。顔が、で・で・でかい。

近くに、こんなのがあった。ホントQRコードは便利だ。
戻ることにした。ここで親しい友人に呼び止められて、塔の先っぽを見た。東西南北と書かれていた。
また、やや大きめの道に出た。
休館の看板が出ていた。2021年(令和3年)6月1日から耐震工事のための休館だ。それにしても長いな
向うに見えるのは旧司祭館である。
右手に曲がって国宝開智学校を見ようとした。
しかし、壁に阻まれ何も見えなかった。
その代わりか、開智学校の説明書きの看板が立てられていた。
江戸時代の学校には、藩校、寺子屋、私塾があったが、近代になると筑摩県学が設置され、学校教育の普及が一気に進んだ。
開智学校の開校時、既に児童は1000人を超え、県下一の大規模な学校として盛大な開校式が催されたとのことだ。
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この記事へのコメント
旧開智学校、ネットが残念でしたね。。
八角の塔がアタマのテッペンに乗っかるショットも面白かったかもしれませんですね。
意味なしで失礼しました。。。
帽子?カ〇ラのように?
でも、ネットが張られていたことの落胆でそこまで頭と首が回らなかったです(笑)。