2024長野・松本旅行記3日目その11~6階を見てから下の階を見学する~

12時41分、国宝松本城の天守の最上階である6階から5階へと降りて来た。
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天守5階は中央に3間×3間の大広間を置かれている。有事には幹部の居所に当てられていたと推定される。
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なお、この階の柱は全部で30本あり、すべて創建当時のものとのことである。
昭和30年代になると天守が傾き、倒壊の危機が出たため、松本中学校長である小林有也氏を中心として明治の大修理が1903年(明治36年)から1913年(大正2年)まで行われた。
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この時、傾いた天守に縄をかけて引き起こしたという伝説があり、その縄の跡と伝えられている柱がこの5階の北側にあるとのことだが、どれか分からなかった。
4階に降りて来た。
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4階は他の階と室内の趣が異なっている。
柱が少なく天井が高い上に、四方から外光が入る明るく広々とした感じになっている。
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有事の際、6階と共に城主の座所に当てられたと考えられているそうだ。
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向うに見えるのが4階から5階に登る松本城の中でもっとも急な階段である。
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説明書きがあった。
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1590年(天正5年)に松本城に入った石川数正は松本城の天守建築とともに城郭の中の普請を始めたと考えられているそうだ。
しかし、1591年(天正19年)には京都に既にいたと思われ、松本に帰ってくることはなかったそうだ。
下にある文書は石川数正が松本市の松林家に送られたものだそうだ。
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普請の見まわりとかつお節のお礼に文書とのことだ。普請とは松本城の土木工事のことを示していると思われるとのこと。
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3階に降りて来た。この階は天守二重の屋根裏に設けられているので窓が全くない。明かりは南側の千鳥破風の木蓮格子(きづれごうし)からわずかに入るだけだそうだ。
2階に降りて来た。
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2階には鉄砲蔵だけではなく、二の丸御殿の発掘調査の展示がなされていた。
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松本城二の丸御殿跡の発掘と整備の説明書きである。
二の丸御殿は松本城三御殿の一つだったが、1727年(享保12年)に本丸御殿が焼失すると政庁となり、明治維新を迎えた。
1876年(明治9年)に全焼し、跡地には松本裁判所が置かれたのだが昭和53年に移転したことにより、1979年(昭和54年)から1981年(昭和56年)にかけて発掘調査が行われた。
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さらに周辺整備を行い史跡公園になったとのことだ。
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こちらがその発掘品である。下は舶来磁器で14世紀から16世紀の青磁とのことだ。
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こちらは下がハマグリやアサリなどの貝で、上がスズキやタイなどである。なぜ?上がそれらの魚と分かるのかは知らないけれど。
魚の多くは塩漬けにして送られたとのことだ。
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こちらは二の丸御殿の絵図である。下は出土品である。
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二の丸御展はかなり広い。
もっとも、金沢城の二の丸御殿(https://gyo-nakamura.seesaa.net/article/503853721.html)とどちらが広いかは分からなかった。
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碁や寛永通貨が展示されていた。
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こちらは瓦である。
いずれも出土品のようだ。
順路に沿って移動した。
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すると、このような境目があった。今まで私たちがいたのが戦国時代に築造された大天守で、これから向かう辰巳附櫓(たつみつけやぐら)は江戸期築造である。
辰巳附属櫓へと移動したのである。

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この記事へのコメント

2024年10月27日 12:02
こんにちは。

なるほど、、、
数正さんは、この天守閣にテッペンに立っていないどころか、
そもそも、完成してもいなかったのですね。
それを夢見てワクワクしつつ、
キモチよく旅立てましたでしょうか。
後にセガレが改易される事も知らない訳ですから。。

中村裕司
2024年10月28日 07:53
知らぬが仏
自分が思っていたんと出来が違〜う!
なんで改易されるようなことをするんか〜い!
と思わずに旅立てたのかも知れないので良かったのかも。

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